とめられてゐる時なのだらうか。だが、僕は昔から、殆どもの心ついたばかりの頃から、揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐたやうな記憶がする。僕は突抜けてゆきたくなるのだ。僕は廃墟の方をうろうろ歩く。僕の顔は何かわからぬものを嚇と内側に叩きつけてゐる顔になつてゐる。人間の眼はどぎつく空間を撲りつける眼になつてゐる。のぞみのない人間と人間の反射が、ますますその眼つきを荒つぽくさせてゐるのだらうか。めらめらの火や、噴きあげる血や、捩がれた腕や、死狂ふ唇や、糜爛の死体や、それらはあつた、それらはあつた、人々の眼のなかにまだ消え失せてはゐなかつた。鉄筋の残骸や崩れ墜ちた煉瓦や無数の破片や焼け残つて天を引裂かうとする樹木は僕のすぐ眼の前にあつた。世界は割れてゐた。割れてゐた、恐しく割れてゐた。だが、僕は探してゐたのだ。何かはつきりしないものを探してゐた。どこか遠くにあつて、かすかに僕を慰めてゐたやうなもの、何だかわからないとらへどころのないもの、消えてしまつて記憶の内側にしかないもの、しかし空間から再びふと浮び出しさうなもの、記憶の内側にさへないが、嘗てたしかにあつたとおもへるもの、僕はぼんやり考へてゐた。
 世界は割れてゐた。恐しく割れてゐた。だが、まだ僕の世界は割れてはゐなかつたのだ。まだ僕は一瞬の閃光を見たのではなかつた。僕はまだ一瞬の閃光に打たれたのではなかつた。だが、たうとう僕の世界にも一瞬の大混乱がやつて来た。そのときまで僕は何にも知らなかつた。その時から僕の過去は転覆してしまつた。その時から僕の記憶は曖昧になつた。その時から僕の思考は錯乱して行つた。知らないでもいいことを知つてしまつたのだ。僕は知らなかつた僕に驚き、僕は知つてしまつた僕に引裂かれる。僕は知つてしまつたのだ。僕は知つてしまつたのだ。僕の母が僕を生んだ母とは異つてゐたことを……。突然、知らされてしまつたのだ。突然?……だが、その時まで僕はやはりぼんやり探してゐたのかもしれなかつた。叔父の葬式のときだつた。壁の落ち柱の歪んだ家にみんなは集つてゐた。そのなかに僕は人懐こさうな婦人をみつけた。前に一度、僕が兵隊に行くとき駅までやつて来て黙つたまま見送つてくれた婦人だつた。僕は何となく惹きつけられてゐた。叔父の死骸が戸板に乗せられて焼場へ運ばれて行く時だつた。僕はその婦人とその婦人の夫と三人で人々から遅れがちに歩いてゐた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚だらう位に思つてゐた。突然、婦人の夫が僕に云つた。
「君ももう知つてゐるのだね、お母さんの異ふことを」
 不思議なこととは思つたが、僕は何気なく頷いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまつてゐたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮まらなかつた。それから間もなく僕の探求が始つた。僕はその人たちの家をはじめてこつそり訪ねて行つた。山の麓にその人たちの仮寓はあつた。それから僕は全部わかつた。あの婦人は僕の伯母、死んだ僕の母の姉だつたのだ。僕の母は僕が三つの時死んでゐる。僕の父は僕の母を死ぬる前に離婚してゐる。事情はこみ入つてゐたのだが、そのため僕には全部今迄隠されてゐた。僕は死んだ母の写真を見せてもらつた。僕には記憶はなかつたが……。僕の父もその母と一緒に僕と三人で撮つてゐる。僕には記憶がなかつたが……。僕は目かくしされて、ぐるぐるぐる廻されてゐたのだつた。長い間、あまりに長い間、僕ひとり、僕ひとり……。僕の目かくしはとれた。こんどは僕のまはりがぐるぐる廻つた。僕もぐるぐる廻りだした。
 僕のなかには大きな風穴が開いて何かがぐるぐると廻転して行つた。何かわけのわからぬものが僕のなかで僕を廻転させて行つた。僕は廃墟の上を歩きながら、これは僕ではないと思ふ。だが、廃墟の上を歩いてゐる僕は、これが僕だ、これが僕だと僕に押しつけてくる。僕はここではじめて廃墟の上でたつた今生れた人間のやうな気がしてくる。僕は吹き晒しだ。吹き晒しの裸身が僕だつたのか。わかるか、わかるかと僕に押しつけてくる。それで、僕はわかるやうな気がする。子供のとき僕は何かのはずみですとんと真暗な底へ突落されてゐる。何かのはずみで僕は全世界が僕の前から消え失せてゐる。ガタガタと僕の核心は青ざめて、僕は真赤な号泣をつづける。だが、誰も救つてはくれないのだ。僕はつらかつた。僕は悲しかつた、死よりも堪へがたい時間だつた。僕は真暗な底から自分で這ひ上らねばならない。僕は這ひ上つた。そして、もう堕ちたくはなかつた。だが、そこへ僕をまた突落さうとする何かのはずみはいつも僕のすぐ眼の前にチラついて見えた。僕はそわそわして落着がなかつた。いつも誰かの顔色をうかがつた。いつも誰かから突落されさうな気がした。突落されたくなか
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