沓が僕の前に展がる。僕はそのなかをくぐり抜けて、何か自分の影を探してゐるのではないか。とあるコンクリートの塀に枯木と枯木の影が淡く溶けあつてゐるのが、僕の眼に映る。あんな淡い、ひつそりとした、おどろきばかりが、僕の眼をおどろかしてゐるのだらうか。
部屋にじつとしてゐると凍てついてしまひさうなので、外に出かけて行つた。昨日降つた雪がまだそのまま残つてゐて、あたりはすつかり見違へるやうなのだ。雪の上を歩いてゐるうちに、僕はだんだん心に弾みがついて、身裡が温まつてくる。冷んやりとした空気が快く肺に沁みる。(さうだ、あの広島の廃墟の上にはじめて雪が降つた日も、僕はこんな風な空気を胸一杯すつて心がわくわくしてゐたものだ。)僕は雪の讃歌をまだ書いてゐないのに気づいた。スイスの高原の雪のなかを心呆けて、どこまでもどこまでも行けたら、どんなにいいだらう。凍死の美しい幻想が僕をしめつける。僕は喫茶店に入つて、煙草を吸ひながら、ぼんやりしてゐる。バツハの音楽が隅から流れ、ガラス戸棚のなかにデコレイシヨンケーキが瞬いてゐる。僕がこの世にゐなくなつても、僕のやうな気質の青年がやはり、こんな風にこんな時刻に、
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