かつた。私は甥がよくも続けて通学できるのに驚かされた。甥は毎日、軍から払ひ下げになつた、だぶだぶの服と外套を着て、早朝出かけては日没に戻つて来るのだつた。私はその年の春、漸く八幡村を立去ることが出来たが、その後、上京してからも、あの甥は元気になつたのかしらと思ひ出すことが多かつた。私が甥の元気な姿を再び見たのは、翌年の正月であつた。その時、次兄は広島の焼跡にバラツクを建てゝ恰度八幡村から荷を運んで来たばかりのところだつた。あたりはまだごつた返してゐた。甥はだぶだぶの軍服を着て、シヤベルで何かとりかたづけてゐた。私の来訪もあまり気にならない位、彼は忙しさうに作業に熱中してゐた。

 私がこの頃になつて、甥のことなど書いてみる気になつたのは、何か私の現在の気持の底に、生き運といふものを探し求めてゐるからでもある。甥の頭髪はもとどほり立派に生え揃つた。あの時、禿になりながら、その後立派に助かつてゐる人は甥ばかりではなかつた。槇氏もやはりその一人である。彼は大手町で遭難し火のまはるのが急速だつたため、細君を助け出すことも出来ず、身一つで河原に避れた。その後、髪の毛が脱けだすと、彼は田舎の奥へ引
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