ずしんと坐っている妻の顔があった。
「この頃は、毎朝、お祈りをしているの、もう祈るよりほかないでしょう、つまらないこと考えないで一生懸命お祈りするの」
 そう云って妻はいまもベッドの上に坐り直り、祈るような必死の顔つきであった。すると、白い壁や天井がかすかに眩暈《げんうん》を放ちだす、あの熱っぽいものが、彼のうちにも疼《うず》きだした。彼はそっと椅子を立上って窓の外に出る扉を押した。そのベランダへ出ると、明るい※[#「左部はさんずい、中部は景、右部は頁」、第3水準1−87−32、30−7]気《こうき》がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟《むね》や、石炭貯蔵所から、裏門の垣《かき》をへだてて、その向うは広漠《こうばく》とした田野であった。人家や径《みち》が色づいた野づらを匐《は》っていたが、遮《さえぎ》るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂《た》れさがっていた。
  …………………………
「こんどおいでのとき聖書を持って来て下さい」
 妻はうち砕かれた花のような笑《え》みを浮べていた。……家へ戻ってから、ふと古びた小型のバイブルをとり出してみて、彼はハッと
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