するのだった。それは彼が少年の頃、亡《な》くなった姉から形見に貰《もら》ったものであった。二十年も前のことだが、死ぬ前、姉は県病院に入院していた。二度ばかり見舞に行って、それきり姉とは逢えなかったのだが、この姉の追憶はいつも彼を甘美な少年の魂に還《かえ》らせていた。そういえば、彼が妻の顔をぼんやり眺《なが》めながら、この頃何かしきりに考えていたのはそのことだったのだろうか。静かな病室のなかで、うっとりと、ふと何か口をついて、喋《しゃべ》りたくなりながら、口には出なかったのは、そのことだったのだろうか。

 真昼の電車の窓から海岸の叢《くさむら》に白く光る薄《すすき》の穂が見えた。砂丘が杜切《とぎ》れて、窪地《くぼち》になっているところに投げ出されている叢だったが、春さきにはうらうらと陽炎《かげろう》が燃え、雲雀《ひばり》の声がきこえた。その小景にこころ惹《ひ》かれ、妻に話したのも、ついこのあいだのようだったが、そこのところが今、白い穂で揺れていた。薄は気がつくと、しかし沿線のいたるところにあった。電車の後方の窓から見ると、遙《はる》かにどこまでも遠ざかってゆく線路のまわりにチラチラと白
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