にグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、ある日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復《かいふく》しているのだった。
「わかったの、わかったのよ」
妻は彼が部屋に這入って行くと、待兼ねていたように口をきった。
「もうこれからは、独《ひと》りで病気の加減を知ることが出来そうよ、どうすればいいかわかって」そう云って妻は大きな眼をみはった。
「尿を舐《な》めてみたの、すると、とてもあまかった。糖がすっかり出てしまうのね」
妻はさびしげに笑った。だが、笑う妻の顔には悲痛がピンと漲《みなぎ》っていた。この病院でも医者はつぎつぎに召集されていたし、津軽先生もいつまでも妻をみてくれるとは請合えなかった。三カ月の予定で糖尿の療法を身につけるため入院した妻は、毎日三度の試験食を丹念に手帳に書きとめているのだった。
ある午後、彼の眼の前には、透きとおった、美しい、少し冷やかな空気が真二つにはり裂け、その底に
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