忽ち轟然《ごうぜん》とひびいて来る庖厨部《ほうちゅうぶ》の皿の音、――そうした病院の風景を家に帰って振返ってみると、彼には半分夢のなかの印象か、ひそかに愛読している書物のなかにある情景のようにおもえた。

 だが、彼の妻が白い寝巻の上にパッと派手な羽織をひっかけ、「その辺まで見送ってあげましょう」と、外の廊下の曲り角まで一緒について来て、「ここでおわかれ」と云った時、彼はかすかに後髪を牽《ひ》かれるようなおもいがした。そこには、妻の振舞のあざやかさがひとり取残されていた。
 ひとりで、附添も置かず、その部屋で暮している妻は、彼が訪れて行くたびに、何かパッと新鮮な閃《ひらめ》きをつたえた。
「熱はもうすっかり退《さ》がりました。津軽先生が、この薬とてもよく効《き》くとおっしゃるの」そう云って黒い小粒の薬を彼に見せながら、「そのうち気胸《ききょう》もしてみようかとおっしゃるの、でも、糖尿の方があるので……」と、妻は仔細《しさい》そうな顔をする。「先生も尿の検査にはなかなか骨が折れるとおっしゃるの」
 彼は妻の口振りから津軽先生の動作まで目に浮ぶようであった。……明るい窓辺《まどべ》で、静か
前へ 次へ
全23ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング