動いていた。よじくれた榎《えのき》と叢《くさむら》のはてに、浅い海が白く光っていた。そうした眺めは、彼にとってはもう久しく見馴《みな》れている風景ではあったが、なぜか近頃、はっきりと輪郭をもって、小さな絵のように彼の眼の前にとまった。その絵を妻に頒ち与えたいような気持で、病院の方へ足を運んでいることがあった。
胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なものの翳《かげ》や、甘美な聯想《れんそう》にとり縋《すが》るように、歩き廻っていた。家と病院と学校と、その三つの間を往《い》ったり来たりする靴が、溝《みぞ》に添う曲り角を歩いていた。そこから坂道を登って行けば病院だったが、その辺を歩いている時、ふと彼の時間は冷やかな秋の光で結晶し、永遠によって貫かれているような気がした。それから、病院の長い長い廊下や、(それは夢のなかの廊下ではなかったが)大概、彼が行くときか帰りかにきっと出逢《であ》う中風患者の姿、(冷たい雨の日も浴衣《ゆかた》がけで何やら大袈裟《おおげさ》な身振りで、可憐《かれん》に片手を震わせていた)合同病室の扉の方から喰《は》み出している痩せた女の黄色い顔、一つの角を曲ると
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