もしれませんが。
 文壇もちよつとした原子爆弾を見舞はれた形だね――と光太は云つて寄来しましたが面白い比喩だと思ひます。火を消さないで持ちこたへた人は多いいやうで、案外少いのではないのでせうか。若くて戦禍に巻込まれた人達が立ちあがるのもまだ将来のことでせう。それにつけても特に啓蒙的の方面で貴兄たちの奮闘を祈ります。
 和木夫妻は南京でどうしてゐるのかさつぱりわかりません。村岡は満洲に居るらしいです。美樹は九月のはじめに復員して帰つて来ました。罹災者たちの世話焼に大童でよく活躍してくれますが母親との折合は悪く早く上京したいと嘆息もして居ります。廿日市に疏[#「疏」に「(ママ)」の注記]開してゐた兄の方は今も何不自由なく暮して居り、むしろ焼けぶとりらしく、いづれ一旗あげると気をよくして居ります。ところが恭子などは、闇の話にのぼせ日夜前途の不安に脅えてべちやくちやと僕の傍で喋べくるのですからかなひません。
 この辺でペンを擱きます。
 十一月にはお逢ひしたいものですね。お元気で。
[#地から3字上げ]十月三十一日 原民喜

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永井善次郎様
[#ここで字下げ終わり]



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●昭和二十年十一月二十四日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
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 御手紙拝見。長篇を書いてゐるのですか、それは前から、プランされてゐるものでせうね。僕もそろそろ長篇を手がけたいと思ひますがまだプランは建ててゐません。光太が詩の雑誌を来秋あたりからやりたいと云つてゐますが現在のところ組代など大変なものでせうね、一度逢つて印刷のことなどお訊ねしたいと思つて居ります。先日熊平兄弟を訪ねました、二人とも健在、木下も助かつて居ました。音楽学校の先生をしてゐた岡田二郎君は死亡しました。
 雑誌の原稿、十二月二十日が締切だと少し急だと思ひますが出来たら御送り致しませう。原子爆弾のことはあの直後早速書き上げてみましたが、読返してみるとどうも意に満たないのでこれはもつと整理してから発表したいと思ひます。
 ここへ美樹が疏[#「疏」に「(ママ)」の注記]開させておいたトルストイ全集があるので時折ひらいてみてゐますが、「饉餓に関する論文」などに興味をひかれ勝ちです。トルストイも研究するとなれば大変なしろものですね。
「冬の日」で光彩を放つ
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