しっかりし給え」
「駄目なんだ」と彼は力なく笑った。だが、笑うと今|迄《まで》彼のなかに張りつめていたものが微《かす》かにほぐされた。だが、ほぐされたものは忽《たちま》ち彼から滑《すべ》り墜ちていた。彼はふらふらの気分で、しかしまっすぐ歩ける自分を訝《いぶか》りながら鋪道を歩いていた。友人と別れた後の鋪道にはまたぼんやりと魔の影が漾《ただよ》っていた。
 週に一度の出勤なのに、東京から戻って来ると、翌日はがっかりしたように部屋に蹲っていた。妻が生きていた日まで、この家はともかく、外の魔の姿からは遮《さえぎ》られていた。妻のいなくなった今も、まだ外の世界がいきなりここへ侵入して来たのではなかった。だが、どこからか忍びよってくる魔の影は日毎《ひごと》に濃くなって行くようだった。彼は、ある画集で見た「死の勝利」という壁画の印象が忘れられなかった。オルカーニアの作と伝えられる一つの絵は、死者の群のまんなかに大きな魔ものが、どっしりと坐っていた。それからもう一つの絵は、画面のあちこちに黒い翼をした怪物が飛び廻っていた。その写真版からは、人間の頭脳を横切る魔ものの影がぞくぞくと伝わってくるようなの
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