るようにおもえた。郷里から次兄と嫂《あによめ》がやって来たので、狭い家のうちは人の気配で賑《にぎわ》っていた。その家の外側を雨は狂ったように降りしきっていた。
 二日つづいた雨があがると、郷里の客はそれぞれ帰って行った。義姉だけはまだ逗留《とうりゅう》していたが、家のうちは急に静かになった。床の間の骨壺のまわりには菊の花がひっそりと匂《にお》っている。彼は近いうちに、あの骨壺を持って、汽車に乗り郷里の広島まで行ってくるつもりだった。が、ともかく今はしばらく心を落着けたかった。久し振りに机の前に坐って、書物をひらいてみた。茫然《ぼうぜん》とした頭に、まだ他人の書いた文章を理解する力が残っているかどうか、それを試《ため》してみるつもりだった。眼の前に展《ひろ》げているのは、アナトール・フランスの短篇集だった。読んで意味のわからない筈《はず》はなかった。だが意味は読むかたわらに消えて行って、それは心のなかに這入《はい》って来なかった。今、彼は自分の世界がおそろしく空洞《くうどう》になっているのに気づいた。
 久し振りに彼は電車に乗って、東京へ出掛けて行くと、家を出た時から、彼をとりまく世界は
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