たアルコールを脱脂綿に浸して、彼は妻の体を拭《ふ》いて行った。義母はまだ看護のつづきのように、しみじみと死体に指を触れていた。それは彼にとって知りすぎている体だった。だが硬直した皮膚や筋肉に今はじめて見る陰翳《いんえい》があった。
 その夜も明けて、次の朝がやって来た。棺に入れる花を買いに彼は友人と一緒に千葉の街へ出かけて行った。家を出てから、ずっと黙っていた友は、国道のアスファルトの路《みち》へ出ると、
「元気を出すんだな、挫《くじ》けてはいかんよ」
 と呟いた。
「うん、しかし……」と彼は応えた。しかし、と云ったまま、それからさきは言葉にはならなかった。佗《わび》しい単調な田舎街《いなかまち》の眺《なが》めが眼の前にあった。(これからさき、これからさきは、悲しいことばかりがつづくだろう)ふと、そういう念想が眼の前を横切った。……寝棺に納められた妻の白い衣に、彼は薄荷《はっか》の液体をふりかけておいた。顔のまわりに、髪の上に、胸の上に合掌した手のまわりに、花は少しずつ置かれて行った。彼はよく死者の幻想風な作品をこれまでも書いていたのだが、だが今眼の前で行われていることは幻ではなかった
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