だ茫として遠いところに慟哭《どうこく》をきいているような気がした。
妻の寝床は部屋の片隅《かたすみ》に移されて、顔は白い布で覆《おお》われていた。そこの部屋のその位置が、前から一番よく妻の寝床の敷かれた場所だった。彼女は今も何ごともなく静かに睡《ねむ》りつづけているようだった。だが、四年前に拵《こしら》えたまま、まだ一度も手をとおさなかった訪問着が夜具の上にそっと置かれていた。電灯の明りに照らされてその緑色の裾模様《すそもよう》は冴《さ》えて疼《うず》くようだった。ふと外の闇から明りを求めて飛込んで来た大きな螳螂《かまきり》が、部屋の中を飛び廻って、その着物の裾のところに来てとまった。やはり死者の気配はこの部屋に満ちているのだった。読経《どきょう》がおわって、近所の人たちが去ると、部屋はしーんと冴え静まっていた。彼は妻の枕許に近より、顔の白布をめくってみた。あれから何時間たったのだろう。顔に誌《しる》されている死の表情は、苦悶《くもん》のはての静けさに戻っている。(いつかもう一度、このことについてお互に語りあえないのだろうか)だが、妻の顔は何ごとも応《こた》えなかった。義母が持って来
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