いた。彼の目の前では試写の合評がだらだらと続いていたが、ふと誰かが立上ると、急に皆の表情が変っていた。人々はてんでに窓から地面の方へ飛降りてゆく。彼にもそれが何を意味しているのか直《す》ぐにわかった。人々の後について、人々の行く方へ歩いて行った。人々が振仰ぐ方向に視線を向けると、丘の上の樹木の梢《こずえ》の青空の奥に、小さな銀色の鍵《かぎ》のような飛行機が音もなく象眼されていた。高射砲の炸裂《さくれつ》する音が遠くで聞えた、丘にくり抜かれている横穴の壕《ごう》へ人々は這入って行った。暗い足許《あしもと》には泥土質の土塊《つちくれ》や水溜《みずたま》りがあって、歩き難《にく》かったが、奥へ奥へと進んで行くと、向側の入口らしい仄明りが見えて来た。人々はその辺で一かたまりになって蹲《うずくま》った。撮影機を抱《かか》えた人や、蝋燭《ろうそく》を持った人の姿が茫《ぼう》と見えた。じっとしていると、壕の壁は冷え冷えとした。ふと彼にはそこが古代の神秘な洞穴《どうけつ》のなかの群衆か何かのようにおもえた。さきほど見た小さな飛行機も幻想のように美しくおもえた。……やがて、その騒ぎが収まると、後は嘘《うそ》のように明るい秋の午後だった。彼は電車の窓から都会の建築の上の晴れ亘《わた》る空をぼんやり眺めていた。来るものが来たのだが、何という静かな空なのだろう。
来るものは、しかし、それから後、つぎつぎにやって来た。ある午後、家で彼は机にむかって何か書きものをしていた。遠くで異様なもの音がしていると思うと、たちまちサイレンと高射砲のひびきが間近にきこえて来た。彼は机を離れて身支度《みじたく》にとりかかった。
「おや、案外落着いていられるのですね」と義母は彼の様子を見て笑った。彼も自分自身の変りように気づいていた。いきなり恐怖につんざかれて転倒する姿を、以前はよく予想していたものだ。だが、今は異常なもののなかにあっても逆上は殆《ほとん》ど感じられなかった。妻がまだ生きていたらと……彼はふと思った。病妻が側にいたら、彼の神経はもっと必死で緊張したかもしれないのだ。今では死が彼にとって地上の風景を微小にしてしまったのだろうか。屋根の上の青空の遙かなところを、小さな飛行機が星のように流れていた。それは海岸の方向にむかって散ってゆくらしかった。
ある夜、彼は東京から帰る電車のなかで、遽《にわ》か
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