に彼は妻の位牌《いはい》を持って、千葉の家に戻って来た。つくづくと戻って来たという感じがした。家に妻のいないことは分っていても、彼にはやはり住み馴れた場所だった。彼は書斎に坐ると、今度の旅のことをこまごまと亡妻に話しかけるような気分に浸れるのだった。だが、ある日、映画会社の帰りを友人と一緒に銀座に出て、そこで夕食をとったとき、彼にはあの魔ものの姿が神経の乱れのように刻々に感じられた。窓ガラスの外側にも、ざわざわするテーブルのまわりにも、陰惨なものの影が犇《ひし》めきあっているようなのだ。
「いつか自分たちで、自分たちの好きな映画が作りたいな」
彼の友人は、彼に期待を持たせるように、そう呟《つぶや》くのだった。だが、そういう明るい社会が彼の生存中にやって来るのだろうか。今、彼の眼の前には破滅にむかってずるずる進んでいる無気味な機械力の流れがあるばかりだった。
食堂を出ると、彼はもっと夕暮の巷《ちまた》を漫歩していたくなった。外で食事をとったり、帰宅を急がなくてもいい身の上になったことが、今しきりに顧みられた。彼は友人の行く方に従《つ》いてぶらぶら歩いていた。
「橋を見せてやろうか」
友は彼を誘って勝鬨橋《かちどきばし》の方へ歩いて行った。橋まで来ると、巷の眺めは一変して、広大無辺なものを含んでいた。冷やかな水と仄暗い空があった。(やがて、このあたりも……)夕靄《ゆうもや》のなかに炎の幻が見えるようだった。それから銀座四丁目の方へ引返して行くと、魔の影は人波と夕靄のなかに揺れていた。(このひとときが破滅への進行のひとときとしても……)靄のなかに動いている人々の影は陰惨ななかにも、まだかすかに甘い憂愁がのこっているようだ。だが、彼が友人と別れて電車に乗ると、夜の空気のなかから、何かぞくぞく皮膚に迫ってくるものがあった。暗い冷たいものが身内を這《は》いまわるようで、それはすぐにも彼を押し倒そうとしていた。(何がこのように荒れ狂うのだろうか)今迄に感じたことのない不思議な新鮮な疲れだ。家にたどりつくと、彼は夜具を敷いて寝込んでしまった。何かが彼のなかに流れ込んでくる、それは死の入口の暗い風のような心地がした。彼はそのまま眼をとじて闇に吸い込まれて行ってもいいと思った。しかし、二三日たつと彼の変調は癒《い》えていた。
ある午後、彼は、演出課のルームでぼんやり腰を下ろして
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング