死のなかの風景
原民喜

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仏壇を抱《かか》えて

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|瞥《べつ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[♯地より2字上げ]
−−

 妻が息をひきとったとき、彼は時計を見て時刻をたしかめた。
 妻の母は、念仏を唱えながら、隣室から、小さな仏壇を抱《かか》えて来ると、妻の枕許《まくらもと》の床の間にそっと置いた。すると、何か風のようなものが彼の背後で揺れた。と、彼ははじめて悲しみがこみあげて来た。彼はこれまでに、父や母の死に遭遇していたので、人間の死がどのように取扱われるかは既によく知っていた。仏壇を見たとき、それがどっと彼の心にあふれた。それよりほかに扱われようはない死がそこにあった。苦しみの去った妻はなされるがままに床のなかに横《よこた》わっているのだ。その細い手はまだ冷えきってはいなかったが、はじめて彼はこの世に置き去りにされている自分に気づいた。今は彼もなされるがままに生きている気持だった。
「僕は茫《ぼう》としてしまっているから、よろしく頼みます」
 葬いのことや焼場のことで手続に出掛けて行ってくれる義弟を顧みて、彼はそう云った。昨夜からの疲労と興奮が彼の意識を朧《おぼろ》にしていた。妻のいる部屋では、今朝ほど臨終にかけつけたのに意識のあるうちには間にあわなかった神戸の義姉がいた。彼はひとり隣室に入って、煙草を吸った。障子一重隔てて、台所では義母が昼餉《ひるげ》の仕度《したく》をしていた。(そうだったのか、これからもやはり食事が毎日ここで行われるのか)と彼はぼんやりそんなことを考えていた。……心のなかで何かが音もなく頻《しき》りに崩《くず》れ墜《お》ちるようだった。ふと机の上にある四五冊の書籍が彼の眼にとまった。それはみな仏教の書物だった。その年の夏に文化映画社に入社して以来、機械や技術の本ばかり読まされていた彼は、ふと仏教の世界が探求してみたくなった。それは今現に無慙《むざん》な戦争がこの地上を息苦しくしている時に、嘗《かつ》ての人類はどのような諦感《ていかん》で生きつづけたのか、そのことが知りたかったからだ。だが、病妻の側《そば》で読んだ書物からは知識の外形ばかりが堆積《たいせき》されていたのだろう。それが
次へ
全12ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング