今、音もなく崩れ墜ちてゆくようだった。彼はぼんやりと畳の上に蹲《うずくま》っていた。
それは樹木がさかさまに突立ち、石が割れて叫びだすというような風景ではなかった。いつのまにか日が暮れて灯のついた六畳には、人々が集って親しそうに話しあっていた。……東京からやって来た映画会社の友人は、彼のすぐ横に坐っていた。ことさら悔みを云ってくれるのではなかったが、彼にはその友人が側に居てくれるというだけで気が鎮《しず》められた。床の間に置かれた小さな仏壇のまわりには、いつのまにか花が飾られて、蝋燭《ろうそく》の灯が揺れていた。開放たれた縁側から見ると、小さな防空壕《ぼうくうごう》のある二坪の庭は真暗な塊《かたま》りとなって蹲っていた。その闇《やみ》のなかには、悲しい季節の符号がある。彼が七年前に母と死別れたのも、この季節だった。三日前に、「きょうはお母さんの命日ね」と妻は病床で何気なく呟《つぶや》いていたのだが。……母を喪《うしな》った時も、暗い影はぞくぞくと彼のなかに流れ込んで来た。だが、それは息子《むすこ》としてまだ悲しみに甘えることも出来たのだ。だが今度は、彼はこれからさきのことを思うと、ただ茫として遠いところに慟哭《どうこく》をきいているような気がした。
妻の寝床は部屋の片隅《かたすみ》に移されて、顔は白い布で覆《おお》われていた。そこの部屋のその位置が、前から一番よく妻の寝床の敷かれた場所だった。彼女は今も何ごともなく静かに睡《ねむ》りつづけているようだった。だが、四年前に拵《こしら》えたまま、まだ一度も手をとおさなかった訪問着が夜具の上にそっと置かれていた。電灯の明りに照らされてその緑色の裾模様《すそもよう》は冴《さ》えて疼《うず》くようだった。ふと外の闇から明りを求めて飛込んで来た大きな螳螂《かまきり》が、部屋の中を飛び廻って、その着物の裾のところに来てとまった。やはり死者の気配はこの部屋に満ちているのだった。読経《どきょう》がおわって、近所の人たちが去ると、部屋はしーんと冴え静まっていた。彼は妻の枕許に近より、顔の白布をめくってみた。あれから何時間たったのだろう。顔に誌《しる》されている死の表情は、苦悶《くもん》のはての静けさに戻っている。(いつかもう一度、このことについてお互に語りあえないのだろうか)だが、妻の顔は何ごとも応《こた》えなかった。義母が持って来
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