に人々の動揺する姿を見た。と、車内の灯は急に仄暗くなりつづいて電車は停車してしまった。窓の覆《おお》いを下げるもの、立上って扉のところから外を覗《のぞ》くもの、急いで鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》るもの……彼はしーんとした空気のなかに、ぼんやり坐っていた。間もなく電車は動きだした。次の駅に着いたとき、彼の側にいる女が外をのぞいて、駅の名前を叫んだ。それからその女は駅に来る度《たび》に、駅の名を叫んでいた。ふと、短いサイレンの音が聴きとれた。灯は全く消された。
「ああ落している、落している」と誰かが窓の外を覗いて叫んでいた。サーチライトの交錯した灯が遠くに小さく見えた。今、彼は自分のすぐ外側に異常な世界が展がっているのを、はっきりと感じた。だが、何かが、それとぴったり結びつくものが、彼のなかから脱落しているようなのだ。彼はぼんやりと、まわりの乗客を眺めていた。それは彼と何のかかわりもない、もの哀《がな》しい歴史のなかの一情景のようにおもえて来る。もの哀しい盲目の群のように、電車の終点駅で、人々は暗闇のなかの階段を黙々と昇って行った。だが、そうした人々の群のなかを歩いていると、彼にも淡い親しみと憐憫《れんびん》が湧《わ》いてくるようなのだった。道路の方では半鐘が鳴り「待避」と叫んでいる声がした。線路の方には朧《おぼろ》な闇のなかを赤いシグナルをつけた電車がのろのろと動いていた。
そうした哀しい風景は、過ぎ去れば、忽ち小さな点のようになって彼の内部から遠ざかって行った。彼はひっそりとした家のうちに坐って、ひっそりとした時間と向きあっていた。どうかすると、彼はまだここでは何ものも喪失していないのではないかと思われた。追憶というよりも、もっと、まざまざとしたものがその部屋には満ちていた。それから、もっと遠いところから、風のようなもののそよぎを感じた。そこには追憶が少しずつ揺れているようだった。世界は研《と》ぎ澄まされて、甘美に揺れ動くのだろうか。静かな慰藉《いしゃ》に似たものがかすかに訪れて来たようだった。……だが、そうした時間もたちまちサイレンの音で截《た》ち切られていた。庭の防空壕の中に蹲っていると、夜の闇は冷え冷えと独《ひと》り悶《もだ》えているようだった。太古の闇のなかで脅える原始人の感覚が彼には分るような気がした。
だが、ある夜、壕を出て部屋に戻って来た義母は、
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