ことがらになつてしまつた。だが、生活とは多分あのやうな、ひつそりした片隅にしかないものなのだらう。
ひつそりとしたこの宿の雰囲気を絶えず掻き乱してゐるのは、僕のすぐ向ふの部屋なのだ。障子と狭い廊下で隔てられてゐるその部屋は殆ど絶え間なく僕の方へ響いてくる。障子の向ふの若い男は日に二三度は烈しい咳の発作に襲はれる。その咳だけきいてゐると、もう余り余命は長いことなささうなのだ。だが、咳が鎮まれば、すぐ興奮した声で彼は喋りつづける。その障子の向ふで細君を相手に喋つたり身動きしてゐる調子は、まるで何か危険な物質の上を爪立ちながら飛歩いてゐるやうだ。僕はその男の身うごきから、ふと向ふの部屋に無数の爆弾が飛散つてゐるやうな幻想をおぼへる。箸を持つ間も畳の上を忙しげに、あの男は逃廻つてゐるのではないか。その部屋には日に何度も相棒らしい人がやつて来るが、すると彼は相棒らしい声でひどく調子づいてゐる。忙しげに早朝から出かけるかとおもへば、一日中寝そべつて細君と喋りあつてゐることもある。それから、軍人あがりらしい間抜け声の揉み医者がやつて来ると、二人はすぐ世間話に夢中になる。終戦のどさくさに、らくらくと
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