たが、それだけの言葉で僕はふと深いところに触られたやうな不思議な気持がした。ある日、僕は知人から貰つた五合の米を甥の置いて行つた鍋で少し炊いてみようとおもつた。下宿の狭い薄暗い台所には小さな流場があつたが、鍋に水道の水を満たし指で白米を掻きまぜた瞬間、僕はこの流場が昔の僕の家の流場とそつくりのやうな錯覚がした。僕が妻と死別れた夏、その頃はもう女中も傭へなかつたので、僕はよく台所で炊事をしたものだ。炊事も洗濯も縫ものもとにかく不器用ながら出来るやうになつたとき僕の妻は死んだ。その後、僕は旅先の住居を畳んで広島の兄の家に移つた。(まるで広島の惨劇に遭ふために移つたやうなものだつたが、)それからも絶えず他所の家で厄介になりつづけてゐたので僕はもう台所のことを忘れかけてゐた。いま僕は自分の指を鍋の水に浸すと、急に自分の指がふと歓びに甦つたやうにおもへた。すぐ向ふの部屋には病妻が寝てゐて、僕は台所でごそごそ用事をした。長らく病床にゐながら妻は台所のこまごました模様を僕よりはつきり憶えてゐた。あれはつひ昨日のことのやうで、あの片隅はまだそこにあるやうに思へるのだが、実際はもう涯てしもない遠い世界の
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