りと存在してゐたやうだし、その家の模様は僕がそのことを知らなかつた前とちよつとも違つてはゐなかつた。だが、僕はどうしても、もう直ちにその家を引揚げねばならぬ男だつた。
 それから間もなく僕は甥の下宿へ一時、身を置くことになつた。彼は郷里から先輩の宿を頼つて受験に来て、その先輩が卒業したのと入替りに簡単にあとの部屋を譲り受けてゐた。この未成年の甥は僕のやうな窮迫をとても理解するのではなかつたが、ただ休暇中だけといふ約束で渋々と承知してくれた。もう甥の学校は夏になるかならないうちに休暇になつてゐた。僕は甥が帰郷すると入れ違ひに、この部屋に移つて来た。それから、ここでの仮りの生活がはじまつた。
 この下宿屋の階下の薄暗い部屋は、ここの主人とその母親だけの棲居になつてゐるのだが、品のいい老女とその若い息子は、まだ昔ながらの静かな澱みのなかに生き残つてゐるやうだ。二人が話しあつてゐる声まで、しつくりと穏やかに潤ひがあつて、まるでここへは災厄の季節も侵入しなかつたのかとおもへる。僕はある夕方、台所でその婆さんと身上話をしてゐた。
「原子爆弾……大変な目にあはれたのですね」
 静かな緊迫した調子だつ
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