青ぶくれのおかみさんが廊下に乳飲児を抱へて、すぐ扉の脇に小便をさせてゐるのだつた。……僕は自分が子供だつた頃のことを憶ひだすのだ。子供の僕は自分の家の納屋の荒壁の汚れた部分を見てもひどく気持悪かつたが、他所の家の惨めな姿など見ると、すぐ夢にまで出て来さうな寒気を感じた。そんな風な弱々しい子供の僕は今でも僕のすぐ手の届くところにゐるのだが……。
 ある朝、早くからこの部屋をノツクするものがあつた。僕が睡不足の眼をこすりながら内側から鍵を外すと、背に大きなリユツクを負つた旅行者の扮装で、女は扉の外に立つてゐた。
「只今」と女は勝手にどかどか部屋に上つて来て肩の荷を外した。
「一寸郷里まで行つて来ました」と女はまだ旅行の浮々した弾みを持つてゐるやうだつた。僕は彼女が今度引越すと云つてゐた事務所の方へ行つてゐたこととばかり思つてゐた。だが、相手は僕の思惑など眼中になく、今、古巣に戻つて来たやうに振舞ひだした。リユツクの紐を解くと新聞紙を展げて白米をざあつと移した。それから、両手で白米を掻きまぜては、口に茶碗の水を含みプーツと吹き掛けだした。
「ああ、お米よ、お米よ、米ゆゑ苦労はたえはせぬ」
 
前へ 次へ
全27ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング