、と僕は君の手紙の告白を読んだ瞬間から絶えず呟きつづけてゐたが、その友の家を出て省線の駅まで歩いて来ると、夜が急に深まつてゐた。さうか、さうなのか、と僕は電車の軌道や青いシグナルをじつと眺めてゐた。その冷んやりした夜のレールや電柱は、すべて何ごとも答へてはくれなかつたが、僕には何かの手応へのやうにおもへた。電車は容易にやつて来なかつた。静かな駅の上にかぶさる夜空は大きな吐息に満ちてゐるやうだつた。この夜空のはて、軌道の彼方に、僕のまだ知らない土地で、その遠隔の地で、君は新しい愛人と生活をともにしてゐたのか。さうして、僕がいつもの如くおづおづと帰つて行かうとする方角には、君が既に見捨て、断じて再び戻らないと宣言してゐる君の家があるのだ。さうして、今もその家には君の決意をまだ少しも知らない君の細君がゐるのだ。君は僕あてに手紙を出すと細君が怒るのを考慮して、長らく僕には手紙をくれなかつたのか。漠然とそんな心づかひも分つてゐたやうだが、悲しい友よ、君のお蔭で僕には人生が二倍の深さに見えてくる。友よ、人間とはこんなに悲しいものなのか。突然、僕の穿いてゐるゴム靴の底は、僕の体を宙に浮上らせるやうな
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