年には身を落着けることのできる一つの部屋が欲しい。この世のすべてから見捨てられてもいいから、誰からも迷惑がられず、足蹴にされたり呪詛されることのない場所で、安らかに息をひきとりたい。そしてその時、自分のしてきた、ささやかな仕事に対して、とにかく、かすかに肯くことができたら、そんなことを考へてゐると僕は何か恍惚とさされる。
 遠方の友よ、君はもうあの家には戻つて来ないのであらうか。君が旅に出掛ける頃、僕たちは同じ軒の下にゐながら、もうお互に打とけて話しあふこともできなかつた。前から僕は君の細君とは口をきくのもひどく怕かつたが、君が旅に出てからは、なほさら、あの家の空気は暗澹としてしまつた。転居の費用とあてさへあれば、僕はもつと早くあそこを飛出してゐただらうに。その家の無言の表示のなかには僕に早く立退いてほしいといふことが、いたるところに読みとれるのだつたが、僕はおどおどしながら窒息するばかりの窮屈な状態をつづけてゐた。
 だが、……ある日、僕は君が阿佐ケ谷の友人にあてた手紙を見せて貰つて、僕は根底から震駭された。さうかなあ、さうだつたのか……さうなつたのなら……もう、かうしてはゐられない
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