屋には昨日の若い女がひとり壁に凭掛つてゐた。
「少しは広々したでせう。今朝、箪笥を売払つてさつぱりしたところなのです」
 女は自嘲的な調子で狭い部屋を見廻した。それはやはり何かに追つめられてゐるものの顔だつた。
「子供は母が郷里へ連れて帰りました。これからはほんとに新規蒔直しでやるつもりです」
 僕は米穀通帳のことを持ち出した。
「あ、身許調査ですか」と、女は汚れた通帳を取出して僕の前に展げた。ずらりといろんな姓名が記入してあるなかから杉本花子といふところを指して教へてくれた。その通帳の住所は福島県になつてゐた。女はそのことを弁解しだした。
「以前はここで配給とつてゐたのですが、田舎の方が欠配もないし、ずつといいので、あちらへ移したのです。だから、お米はあちらから背負つて運んでゐるのです」
 僕には何だかよく事情がわからなかつた。すると女はこんなことを云ひ出した。
「あなたの荷物は沢山おありなのですか。明日あたり私はここを引揚げるつもりですが、ただ少しお願ひがあるのです。目ぼしい荷物は持つて行きますが、この鏡台とか押入の行李などは当分ここへ置かして下さいませんか。どつちみち間代は当分私
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