来る若い青年や、その媒介所の親爺までやつて来るやうになつた。それから債権者らしい男も頻繁に苛立たしくやつて来る。僕はこの部屋の先住者にどんな複雑な事情があるにしろ、なるべく早く立退いてもらひたいと思ふ心で一杯だつた。
と、ある朝早くから扉を叩く音で僕は起された。女はこの前と同じやうにリユツクを背負つて意気込んでゐた。僕は何時頃ほんとにこの部屋を開けてもらへるのか、そのことをすぐに訊ねた。と意外な障害物と遭遇したやうに、ぴしりとしたものが閃き、それから急に女はひどく萎れた顔つきになつてゐた。
「私の方にもいろいろ都合がありますので、……それに実はお米のことで二千円ぺてんにかかつたところなのです。闇屋にお金渡したのに約束の米はくれなかつたので……相手が悪かつたので」
そんなことを憂はしげに呟いてゐたが、軈てリユツクの紐を解きだした。白米は新聞紙に展げられ、両手で荒々しく掻き廻されてゐた。
「食ふか、食はれるか」何か凄惨な姿で女はひとり呟いてゐた。
僕は殆ど毎晩すぐ隣室で泣き叫ぶ子供のために眠れない。親はまるでその子をいびり殺さうとしてゐるのだらうか、――撲りつける手の音がピシピシと僕の耳にひびく。僕の頭のなかの状態はこのアパートのどうにもならぬ疵だらけの姿と似て来る。どうにもならぬ人間たちが朽ちかかつた階段を降りて巷へ出て行く。どうにもならぬ人間の群はぞろぞろぞろぞろ駅の方で押合つてゐる。さうした人間たちは、混乱の電車の中やマーケツトに、お互の符牒と動物力で僕と無関係に生存してゐる。そして、さうした人間たちはいつも土足で僕の頭のなかを踏みにじるのだ。僕の頭には次第に訳のわからぬ怒りが満ちて来る。怒りはこの部屋に満ちてゐる。これはほんたうに僕の借りた部屋なのだらうか。それともこの汚ならしい部屋までが現在の僕を愚弄しようとしてゐるのではないか。……なにごとももう考へるな、と夜はきまつて停電になつた。毎晩の停電は僕を日が暮れると絶望的にすぐ床に横はらせる。僕はこんな詩を考へる。
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わびしい部屋のなかの海。頭のなかの海、くらい怒りを溶かす海、大きな大きなあまりにも大きなものにむかつて睡り込んでゆかうとする、ぎしりぎしりと頭のなかに渦巻く海。
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真黒な思考の夜のつぎには、毎日、この部屋にも朝がやつて来る。すると、僕にはとに
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