災厄の日
原民喜
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(例)部屋[#「部屋」に傍点]
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自分の部屋でもないその部屋を自分の部屋のやうに、古びた襖や朽ちかかつた柱や雨漏のあとをとどめた壁を、自分の心の内部か何かのやうに安らかな気持で僕は眺めてゐる。湿気と樹木の多い日蔭の露路にこの下宿屋の玄関はあつて、暗い階段をのぼつた突当りの六畳が僕の部屋なのだが、焼け残つたこの一角だけは今、焼跡に発生してゐるギラギラの世界に対して、静かに身を躱してゐるやうだ。
窓の外の建物の向ふにギラギラ燃えてゐた太陽が没して、この部屋の裸電球が古びた襖や柱を照らす頃、僕は漸く人心地がついたやうに古畳の上に横はつたまま、自分の部屋でもないその部屋を自分の部屋か何かのやうに眺めまはしてゐるのだ。これは僕が学生の頃下宿してゐた六畳の部屋に似てゐて、何となしに、この世のはてのやうな孤独の澱みが感じられる。僕は久振りに昔の古巣に戻つたやうな親しみをおぼへる。(古巣へ? ほんたうに僕が戻つて行かれたら!)僕はいま晩年のことを考へてゐるのだ。せめて僕の晩年には身を落着けることのできる一つの部屋が欲しい。この世のすべてから見捨てられてもいいから、誰からも迷惑がられず、足蹴にされたり呪詛されることのない場所で、安らかに息をひきとりたい。そしてその時、自分のしてきた、ささやかな仕事に対して、とにかく、かすかに肯くことができたら、そんなことを考へてゐると僕は何か恍惚とさされる。
遠方の友よ、君はもうあの家には戻つて来ないのであらうか。君が旅に出掛ける頃、僕たちは同じ軒の下にゐながら、もうお互に打とけて話しあふこともできなかつた。前から僕は君の細君とは口をきくのもひどく怕かつたが、君が旅に出てからは、なほさら、あの家の空気は暗澹としてしまつた。転居の費用とあてさへあれば、僕はもつと早くあそこを飛出してゐただらうに。その家の無言の表示のなかには僕に早く立退いてほしいといふことが、いたるところに読みとれるのだつたが、僕はおどおどしながら窒息するばかりの窮屈な状態をつづけてゐた。
だが、……ある日、僕は君が阿佐ケ谷の友人にあてた手紙を見せて貰つて、僕は根底から震駭された。さうかなあ、さうだつたのか……さうなつたのなら……もう、かうしてはゐられない
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