、と僕は君の手紙の告白を読んだ瞬間から絶えず呟きつづけてゐたが、その友の家を出て省線の駅まで歩いて来ると、夜が急に深まつてゐた。さうか、さうなのか、と僕は電車の軌道や青いシグナルをじつと眺めてゐた。その冷んやりした夜のレールや電柱は、すべて何ごとも答へてはくれなかつたが、僕には何かの手応へのやうにおもへた。電車は容易にやつて来なかつた。静かな駅の上にかぶさる夜空は大きな吐息に満ちてゐるやうだつた。この夜空のはて、軌道の彼方に、僕のまだ知らない土地で、その遠隔の地で、君は新しい愛人と生活をともにしてゐたのか。さうして、僕がいつもの如くおづおづと帰つて行かうとする方角には、君が既に見捨て、断じて再び戻らないと宣言してゐる君の家があるのだ。さうして、今もその家には君の決意をまだ少しも知らない君の細君がゐるのだ。君は僕あてに手紙を出すと細君が怒るのを考慮して、長らく僕には手紙をくれなかつたのか。漠然とそんな心づかひも分つてゐたやうだが、悲しい友よ、君のお蔭で僕には人生が二倍の深さに見えてくる。友よ、人間とはこんなに悲しいものなのか。突然、僕の穿いてゐるゴム靴の底は、僕の体を宙に浮上らせるやうな感覚がした。僕は大きく息を吸つて、両脚を突張らねばならなかつた。
君はその愛人のなかに神を見出し、この地上で被つた魂のかずかずの痛手をこの地上で、こんどこそほんとに医やすのだといふ。そして、そのためには君が建てた東京の家と家財一切は金輪際、捨てて顧みないといふのか。君がこれまで人間のできうる限りの忍耐力で堪へてゐたものも僕にはわかるやうな気がする。だから君にとつては、こんどのことも……だが、それにしても、そしてこれは……これらはすべて容易ならぬことに違ひないのだ。不思議な友よ、悲しい友よ、僕は君をよく知つてゐるはずなのに、ほんたうはまるで知つてゐないとも云へるのだ。そのくせ君の存在は遠くから僕をゆさぶり、僕に何ものかを放射してくる。戦時中、君が牢獄から出ていきなり鋭い詩を書きだした時も、ハツと僕を驚かした。終戦後、一刻も早く東京へ出て来いと云つてくれた君の葉書は忽ち僕を弾いた。そして今度も、何か容易ならぬものが、僕の胸を締めつける。……殆ど絶え間なしに、こんな独白を繰返しながら、僕はその夜もいつもの如くおづおづとあの家に帰つて行つた。何ごとも知らないその家の細君は、その家の奧にひつそ
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