青ぶくれのおかみさんが廊下に乳飲児を抱へて、すぐ扉の脇に小便をさせてゐるのだつた。……僕は自分が子供だつた頃のことを憶ひだすのだ。子供の僕は自分の家の納屋の荒壁の汚れた部分を見てもひどく気持悪かつたが、他所の家の惨めな姿など見ると、すぐ夢にまで出て来さうな寒気を感じた。そんな風な弱々しい子供の僕は今でも僕のすぐ手の届くところにゐるのだが……。
 ある朝、早くからこの部屋をノツクするものがあつた。僕が睡不足の眼をこすりながら内側から鍵を外すと、背に大きなリユツクを負つた旅行者の扮装で、女は扉の外に立つてゐた。
「只今」と女は勝手にどかどか部屋に上つて来て肩の荷を外した。
「一寸郷里まで行つて来ました」と女はまだ旅行の浮々した弾みを持つてゐるやうだつた。僕は彼女が今度引越すと云つてゐた事務所の方へ行つてゐたこととばかり思つてゐた。だが、相手は僕の思惑など眼中になく、今、古巣に戻つて来たやうに振舞ひだした。リユツクの紐を解くと新聞紙を展げて白米をざあつと移した。それから、両手で白米を掻きまぜては、口に茶碗の水を含みプーツと吹き掛けだした。
「ああ、お米よ、お米よ、米ゆゑ苦労はたえはせぬ」
 そんなことを呟きながらゲラゲラ笑ひ、升で測つては風呂敷に移した。軈て風呂敷包を一つ抱へてふいと外へ出て行つた。暫くすると、女はすぐに部屋に戻つて来た。続いて、背の高いマーケツト者らしい男がのそつと部屋に上つて来る。男は部屋にゐる僕の存在を無視し、立つたまま畳の上の白米を蔑んだ眼つきで見下してゐたが、やがて黙つて出て行つた。それからも、女は絶えずそはそはしながら部屋を出入しながら昼すぎまでゐたやうだが、何時の間にか姿を消してゐた。
 日が暮れると毎晩停電なので、アパートは真暗になるが、僕は蝋燭を点ける気もしないので、真暗な部屋に蹲つた儘ぼんやりしてゐた。誰かが僕の部屋の扉をノツクして、濁み声で「杉本さん」と叫ぶ。
「杉本さんはゐませんよ」僕は扉の外からさう応へたが、相手はなかなか去らなかつた。扉をあけて僕は用向を訊ねてみた。
「困つたな、杉本さんゐないのですか。自転車を一つあづかつておいてもらひたいのですがねえ」
「自転車を? この部屋へ」僕はただ驚くだけであつた。やがて相手は黙々と帰つて行つた。
 殆ど毎日いろんな不可解な人物が杉本を訪ねて来た。結婚媒介所で教へてもらつたといつてやつて
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