溜息をついて、「昨夜いろんなことを考へるととても眠れなかつたのです」と、なほもごそごそ細かい品物を引掻廻してゐた。しかし僕から残金を受取ると、女は急に真面目さうな顔になり、
「では今日からこの部屋を使つて下さい」と小声で呟いた。それからふと何か説明しにくい纏らないことを喋る時のやうに、こんなことを云ふのだつた。
「私はすぐ出て行きます。ですけれど、これからもやはり時々はお邪魔させて頂きますよ。それから鍵を一つ、この方を預けておきます。気をつけて下さい。ここのアパートでは品物がよく無くなりますから、鍵だけはお願ひします」
 それから暫く荷拵へをしてゐたが、やがて大きな包みを背に負ふと両手に籠や風呂敷包を持つて出掛けて行つた。相手が出て行くと、僕は自分の荷物のことを考へながら、そこの押入を開けてみた。押入はまだ半分以上、女の荷物で塞がつてゐた。これではどうにもならなかつたが、差当つて僕は夜具だけでも向ふの下宿から運ばうと思つた。
 僕はその夜そこのアパートへ夜具を運んで来ると、その時からその部屋での僕の生活が始まつた。だが、これはほんとに僕の部屋なのだらうか……。ここには女の残して行つた鏡台や卓袱台が僕の目の前にあり、押入の中には自堕落な暮し振りがはつきり見えてくる。しかし、それは僕の知つたことではない。僕は僕の周囲にある無関係の物質から影響されたくはないのだ。だが、僕の眼の前の窓ガラスには大きな穴があつて、そこへ貼られた半紙は皺くちやになつてゐて、そして今にもとれてしまひさうなのだ。ガラス戸の桟は歪んで緩るみ、開け立てするたびにぐらぐらする。壁も畳も襖も滅茶苦茶に汚なく、時々、プーンと芥溜の臭ひがする。それから……、この部屋の周囲にある陰惨な空気について云へば殆ど限りがなかつた。部屋は廊下と同一平面の高さにあるので、外をガタガタ歩く下駄の音は寝てゐる僕の枕頭に直接響いて来る。階段の脇の光線のあたらぬ流場は煤けた蜘蛛の巣か何かのやうに真黒だつたが、僕はその水道の栓を捻つてみると、水は一滴も出なかつた。水道はもう数年前から壊れてゐたのだ。通風のわるい狭い廊下では部屋毎に薪を燃やす。その煙は建物の中を匐い、容赦なく僕の目や鼻を襲つた。僕は外から帰つてこのアパートに入ると、入口のところでむんむんする人間の異臭のかたまりと出あふ。躓きさうな階段をのぼつて薄暗い廊下の方へ来ると、
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