屋には昨日の若い女がひとり壁に凭掛つてゐた。
「少しは広々したでせう。今朝、箪笥を売払つてさつぱりしたところなのです」
女は自嘲的な調子で狭い部屋を見廻した。それはやはり何かに追つめられてゐるものの顔だつた。
「子供は母が郷里へ連れて帰りました。これからはほんとに新規蒔直しでやるつもりです」
僕は米穀通帳のことを持ち出した。
「あ、身許調査ですか」と、女は汚れた通帳を取出して僕の前に展げた。ずらりといろんな姓名が記入してあるなかから杉本花子といふところを指して教へてくれた。その通帳の住所は福島県になつてゐた。女はそのことを弁解しだした。
「以前はここで配給とつてゐたのですが、田舎の方が欠配もないし、ずつといいので、あちらへ移したのです。だから、お米はあちらから背負つて運んでゐるのです」
僕には何だかよく事情がわからなかつた。すると女はこんなことを云ひ出した。
「あなたの荷物は沢山おありなのですか。明日あたり私はここを引揚げるつもりですが、ただ少しお願ひがあるのです。目ぼしい荷物は持つて行きますが、この鏡台とか押入の行李などは当分ここへ置かして下さいませんか。どつちみち間代は当分私の方から管理人へ払ひます」女はもう僕がここを借りることにしているやうだつた。
その夕方、土地会社の男が僕を訪ねて来て、僕の返事を求めた。僕はまだ何とも決心がつかなかつた。するとまた翌朝、土地会社の男はやつて来た。何しろ相手は急いでゐるのだから手金だけでも今日中に渡してやつてくれ、でなければ話を他へ持つて行くと急かしだした。たうとう僕はその申込を承諾した。彼が帰つて行くのと入れ違ひにアパートの女が金を受取りに来た。女は金を受取ると、それでは早速今日のうちに荷物を少し運んで頂きたいと云ひだした。僕はいま荷物を向ふへ運んでみたところで、まだどうにもならないだらうと思つた。あまり気はすすまなかつたが、とにかく行李を一箇だけその部屋に運んで行つた。……その部屋の片隅に僕の行李が置かれると、僕といふ存在はひどく中途半ぱな気持にされてしまつた。だが、こんな風な困難な状態も焼け出されの僕にとつては止むを得ないことかのやうにおもへた。
翌日は残金を渡して、一応とにかく部屋を開渡してもらふ約束だつた。僕が約束の時刻に訪ねて行くと、部屋はいろんな荷物でごつた返してゐた。
「ああ、くたびれた」と女は大きな
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