た。
(流竄《りゅうざん》。そういう言葉が彼にはすぐ浮ぶのだ。だが、彼は身と自らを人生から流謫《るたく》させたのではなかったか)
 鍛冶屋《かじや》の薄暗い軒下で青年がヴァイオリンを練習していた。往来の雑音にその音は忽ち掻消《かきけ》されるのだが、ああして、あの男はあの場所にいることを疑わないもののようだ。低い軒の狭い家はすぐ往来から蚊帳《かや》の灯がじかに見透かされる。あのような場所に人は棲《す》んでいて、今、彼の眼に映ることが、それだけのことが彼には不思議そのものであり微かに嗟嘆《さたん》をともなった。だが、往来は彼の心象と何の関《かかわ》りもなく存在していたし、灯の賑《にぎ》わう街の方へ入ると、そこへよく買物に出掛ける妻は、勝手知った案内人のようにいそいそと歩いた。
 彼はいつも外に出ると病後の散歩のような気持がした。海岸の方へ降る路で、ふと何だかわからないが、優しい雑草のにおいを感じると、幼年時代の爽《さわ》やかな記憶がすぐ甦《よみがえ》りそうになった。だが、どうかすると、彼にはこの地球全体が得態《えたい》の知れない病苦に満ち満ちた夢魔のようにおもえる。……幾日も雨の訪れない息
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