うに朧気《ぼおろげ》に映る。と、黄色い水仙のようなものが、彼の眼の片隅にある。それは黄色いワン・ピースを着た妻であったが、恐水病患者の熱っぽい眼に映る幻のようでもあった。今にも息が杜絶《とだ》えそうな観念がぎりぎりと眼さきに詰寄せる。だが、妻はいつも彼の乱れがちの神経を穏かに揺り鎮《しず》め、内攻する心理を解きほぐそうとした。どうかすると妻の眼のなかには彼の神経の火がそのまま宿っているように想えることもある。彼は不思議そうにその眸に視入った。と忽ち、もっと無心なものが、もっと豊かなものが妻の眸のなかに笑いながら溢《あふ》れていた。無心なものは彼を誘って、もっと無邪気に生活の歓《よろこ》びに浸らせようとするのだった。彼等が移って来たその土地は茫漠とした泥海と田野につつまれていて、何の拠《よ》りどころも感じられなかったし、一歩でも閾《しきい》の外に出ることは妙に気おくれが伴なうのだったが、それでも陽が沈んで国道が薄鼠色に変ってゆく頃、彼は妻と一緒によく外に出た。平屋建の黝《くろず》んだ家屋が広いアスファルトの両側につづいて、海岸から街の方へ通じる国道は古い絵はがきの景色か何かのようにおもえ
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