景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》に満ちた山の中腹に建っていて、空気は肺に泌《し》み入るように冷たいが、陽の光は柔かな愛撫《あいぶ》を投げかけてくれる。そこでは、すべての物の象ががっちりとして懐《なつか》しく人間の眼に映ってくる。どんな微細な症状もここでは隈《くま》なく照らし出されるのだが、そのかわり細胞の隅々《すみずみ》まで完膚なきまで治療されてゆく。厳格な規律と、行きとどいた設備、それから何よりも優しい心づかい、……そうしたものに取囲まれて、静かな月日が流れてゆく。人は恢復期《かいふくき》の悦《よろこ》びに和らぐ眸《ひとみ》をどうしても向うに見える樹木の残映にふりむけたくなるのだ……。
今、あたりは奇妙に物静かだった。いつも近所合壁の寄合う場所になっている表の方の露次もひっそりとして人気《ひとけ》がなかった。それだけでも妻はたしかに一ときの安堵に恵まれているようだった。そして、彼もまたあの恢復期の人のように幻の椅子に凭《よ》りかかっていた。
彼|等《ら》二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年の夏は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家――それは
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