っては恐怖と苦悶《くもん》に鎖《とざ》されていた。が、その向側に夢みる世界だけが甘く清らかに澄んでいた。妻は彼の向側にあるものを引き寄せようとしているのかもしれなかった。彼はそのような妻の顔をぼんやりと眺める。するとむしろ、妻の顔の向側に何か分らないが驚くべきものがあるようにおもえた。
その年の夏が終る頃から、作品は少しずつ書かれていた。外部の喧騒《けんそう》から遮断《しゃだん》されたところで読書と瞑想《めいそう》に耽《ふけ》ることもできたが、彼はいつも神経を斫り刻むおもいで、難渋を重ねながらペンをとった。……このようにして年月は流れて行った。だが、外部の世界と殆ど何の接触もなく静かに月日を送っていることは、却《かえ》って鋭い不安を掻《か》きたてていた。天井の板が夜ことりと音をたてただけでも、彼の心臓をどきりとさせたし、雨戸の節穴から差してくる月の光さえも神経を青ざめさせた。
それからやがて、あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、既にはじまっていた。彼はただ頑《かたくな》な姿勢で暗い年月を堪えてゆこうとした。が、次第に彼は茫然として思い耽るばかりだっ
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