発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺《うかが》われた。彼は若い女の心に転じられた夢の素直さに驚き、それからその親切に甘えた。だが、何の職業にも就《つ》けず、世間にも知られず、ひたすら自分ひとりで、ものを書いて行こうとする男には、身を斫《き》りさいなむばかりの不安と焦躁《しょうそう》が渦巻いていた。世の嘲笑《ちょうしょう》や批難に堪えてゆけるだけの確乎《かっこ》たるものはなかったが、どうかすると、彼はよく昂然《こうぜん》と、しかし、低く呟《つぶや》いた。
「たとえ全世界を喪《うしな》おうとも……」
たとえ全世界を喪おうとも……それはそれでよかった。だが、眼の前に一人の女が信じようとしている男、その男が遂《つい》に何ものでもなかったとしたら……。
彼にとって、文学への宿願は少年の頃から根ざしてはいた。が、非力で薄弱な彼には、まだ、この頃になっても殆ど何の世界も築くことができなかった。世界は彼にと
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