つも鋩《きっさき》のように彼に突立ってくるどうにもならぬ絶望感と、そこから跳《は》ね上ろうとする憤怒《ふんぬ》が、今も身裡《みうち》を疼くのをおぼえた。殆ど祈るような眼つきで、彼は空間を視つめていた。と、遠い昔の川遊びの記憶がふと目さきにちらついて来る。故郷の澄みきった水と子供のあざやかな感覚が静かな音響をともないながら……。
「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老《えび》を獲《と》るのだが、瓶《びん》のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
 妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧《あこが》れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸《ほとばし》るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
 その祈るような眼は遙《はる》か遠くにあるものに対《むか》って、不思議な透視を働かせているようだった。彼もまた弾《はず》む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたのだが……。
 彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに
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