た。幼年時代に見た空の青かったこと、水の澄んでいたこと、そのような生存感ばかりが疼くように美しかった。茫然としてもの思いに耽っている彼を、妻はよくこう云った。
「エゴのない作家は嫌《きらい》です。誰が何と云おうとも、たとえ全世界を捨てても……」
そういう妻の眼もギラギラと燃え光っていた。澱《よど》みやすい彼の気分を掻きまぜ沈む心をひき立てようとするのも彼女だった。それから妻は茶の湯の稽古《けいこ》などに通いだした。だが、その妻の挙動にも以前と違ういらだちが滲《にじ》んで来た。
「淋《さび》しい、淋しい、何かお話して頂戴《ちょうだい》」
真夜なかに妻は甘えた。二人だけの佗住居《わびずまい》を淋しがる彼女ではなかったのに、何かの異常なものの予感に堪えきれなくなったらしい。だが、それが何であるかは、彼にはまだ分らなかった。
その悲壮がやって来たのは、もう二年後のことだった。夏の終り頃、彼は一人で山の宿へ二三泊の旅をしたが、殆ど何一つ目も心も娯《たの》しますもののないのに驚いた。山の湖水の桟橋に遊覧用のモーター・ボートが着く。青い軍服を着た海軍士官の一隊が――彼の眼には編笠《あみがさ》を
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