とは広島で落合うことにして、彼は一足さきに東京を出発した。
倉敷駅の改札口を出ると、小さな犬を抱《かか》えている女の児《こ》が目についた。と、その女の児は黙って彼にお辞儀した。暫《しばら》く見なかった間に小さな姪はどこか子供の頃の妹の顔つきと似てきた。
「お母さんは今ちょっと出かけていますから」と、小さな姪は勝手口から上って、玄関の戸を内から開けてくれた。その座敷の机の上には黄色い箱の外国煙草が置いてあった。
「どうぞ、お吸いなさい」と姪はマッチを持ってくると、これで役目をはたしたように外に出て行った。彼は壁際《かべぎわ》によって、そこの窓を開けてみた。窓のすぐ下に花畑があって、スミレ、雛菊《ひなぎく》、チューリップなどが咲き揃《そろ》っていた。色彩の渦にしばらく見とれていると、表から妹が戻って来た。すると小さな姪は母親の側にやって来て、ぺったり坐っていた。大きい方の姪はまだ戻って来なかったが、彼が土産の品を取出すと、「まあ、こんなものを買うとき、やっぱし、あなたも娯《たの》しいのでしょう」と妹は手にとって笑った。
「とてもいいところから貰えて、みんな満足のようでした」
先日の甥の結婚式の模様を妹はこまごまと話しだした。
「式のとき、あなたの噂《うわさ》も出ましたよ。あれはもう東京で、ちゃんといいひとがあるらしい、とみんなそう云っていました」
急に彼はおかしくなった。妻と死別してもう七年になるので、知人の間でとかく揶揄《やゆ》や嘲笑《ちょうしょう》が絶えないのを彼は知っていた。……妹が夕飯の支度《したく》にとりかかると、彼は応接室の方へ行ってピアノの前に腰を下ろした。そのピアノは昔、妹が女学生の頃、広島の家の座敷に据えてあったものだ。彼はピアノの蓋《ふた》をあけて、ふとキイに触《さわ》ってみた。暫く無意味な音を叩いていると、そこへ中学生の姪が姿を現した。すっかり少女らしくなった姿が彼の眼にひどく珍しかった。「何か弾いてきかせて下さい」と彼が頼むと、姪はピアノの上の楽譜をあれこれ捜し廻っていた。
「この『エリーゼのために』にしましょうか」と云いながら、また別の楽譜をとりだして彼に示しては、「これはまだ弾けません」とわざわざ断ったりする。その忙しげな動作は躊躇に充《み》ちて危うげだったが、やがて、エリーゼの楽譜に眼を据えると、指はたしかな音を弾いていた。
翌朝、彼が眼をさますと、枕頭《ちんとう》に小さな熊《くま》や家鴨《あひる》の玩具《おもちゃ》が並べてあった。姪たちのいたずらかと思って、そのことを云うと、「あなたが淋《さび》しいだろうとおもって、慰めてあげたのです」と妹は笑いだした。
その日の午後、彼は姪に見送られて汽車に乗った。各駅停車のその列車は地方色に染まり、窓の外の眺めものんびりしていたが、尾道《おのみち》の海が見えて来ると、久し振りに見る明るい緑の色にふと彼は惹《ひ》きつけられた。それから、彼の眼は何かをむさぼるように、だんだん窓の外の景色に集中していた。彼は妻と死別れてから、これまで何度も妻の郷里を訪ねていた。それは妻の出生にまで溯《さかのぼ》って、失われた時間を、心のなかに、もう一度とりかえしたいような、漠《ばく》とした気持からだったが、その妻の生れた土地ももう間近にあった。……本郷駅で下車すると、亡妻の家に立寄った。その日の夕方、その家のタイル張りの湯にひたると、その風呂にはじめて妻に案内されて入った時のことがすぐ甦《よみがえ》った。あれから、どれだけの時間が流れたのだろう、と、いつも思うことが繰返された。
翌日の夕方、彼は広島駅で下車すると、まっすぐに幟町《のぼりちょう》の方へ歩いて行った。道路に面したガラス窓から何気なく内側を覗《のぞ》くと、ぼんやりと兄の顔が見え、兄は手真似《てまね》で向うへ廻れと合図した。ふと彼はそこは新しく建った工場で、家の玄関の入口はその横手にあるのに気づいた。
「よお、だいぶ景気がよさそうですね」
甥がニコニコしながら声をかけた。その甥の背後にくっつくようにして、はじめて見る、快活そうな細君がいた。彼は明日こちらへ到着するペンクラブのことが、新聞にかなり大きく扱われていて、彼のことまで郷土出身の作家として紹介してあるのを、この家に来て知った。
「原子爆弾を食う男だな」と兄は食卓で軽口を云いだした。が、少し飲んだビールで忽《たちま》ち兄は皮膚に痒《かゆ》みを発していた。
「こちらは喰《く》われる方で……こないだも腹の皮をメスで剥《は》がれた」
原子爆弾症かどうかは不明だったが、近頃になって、兄は皮膚がやたらに痒くて困っていた。A・B・C・C(原子爆弾影響研究所)で診察して貰《もら》うと、皮膚の一部を切とって、研究のため、本国へ送られたというのである。この前見た時にく
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