らべると、兄の顔色は憔悴《しょうすい》していた。すぐ側に若夫婦がいるためか、嫂《あによめ》の顔も年寄めいていた。夜遅く彼は下駄をつっかけて裏の物置部屋を訪《たず》ねてみた。ここにはシベリアから還った弟夫婦が住居しているのだった。
翌朝、彼が縁側でぼんやり佇《たたず》んでいると、畑のなかを、朝餉《あさげ》の一働きに、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いでゆく兄の姿が見かけられた。今、彼のすぐ眼の前の地面に金盞花《きんせんか》や矢車草の花が咲き、それから向うの麦畑のなかに一本の梨《なし》の木が真白に花をつけていた。二年前彼がこの家に立寄った時には麦畑の向うの道路がまる見えだったが、今は黒い木塀《きべい》がめぐらされている。表通りに小さな縫工場が建ったので、この家も少し奥まった感じになった。が、焼ける前の昔の面影を偲《しの》ばすものは、嘗《かつ》て庭だったところに残っている築山《つきやま》の岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらいのものだ。彼はあの惨劇の朝の一瞬のことも、自分がいた場の状況も、記憶のなかではひどくはっきりしていた。火の手が見えだして、そこから逃げだすとき、庭の隅《すみ》に根元から、ぽっくり折れ曲って青い枝を手洗鉢《てあらいばち》に突込んでいた楓《かえで》の生々しい姿は、あの家の最後のイメージとして彼の目に残っている。それから壊滅後一カ月あまりして、はじめてこの辺にやって来てみると、一めんの燃えがらのなかに、赤く錆《さ》びた金庫が突立っていて、その脇《わき》に木の立札が立っていた。これもまだ克明に目に残っている。それから、彼が東京からはじめてこの新築の家へ訪ねた時も、その頃はまだ人家も疎《まば》らで残骸《ざんがい》はあちこちに眺《なが》められた。その頃からくらべると、今この辺は見違えるほど街らしくなっているのだった。
午後、ペンクラブの到着を迎えるため広島駅に行くと、降車口には街の出迎えらしい人々が大勢集っていた。が、やがて汽車が着くと、人々はみんな駅長室の方へ行きだした。彼も人々について、そちら側へ廻った。大勢の人々のなかからMの顔はすぐ目についた。そこには、彼の顔見知りの作家も二三いた。やがて、この一行に加わって彼も市内見物のバスに乗ったのである。……バスは比治山《ひじやま》の上で停《とま》り、そこから市内は一目に見渡せた。すぐ叢《くさむら》のなかを雑嚢《ざつのう》をかけた浮浪児がごそごそしている。それが彼の眼には異様におもえた。それからバスは瓦斯《ガス》会社の前で停った。大きなガスタンクの黝《くろず》んだ面に、原爆の光線の跡が一つの白い梯子《はしご》の影となって残っている。このガスタンクも彼には子供の頃から見馴《みな》れていたものなのだ。……バスは御幸橋を渡り、日赤病院に到着した。原爆患者第一号の姿は、脊の火傷《やけど》の跡の光沢や、左手の爪《つめ》が赤く凝結しているのが標本か何かのようであった。……市役所・国泰寺・大阪銀行・広島城跡を見物して、バスは産業奨励館の側に停った。子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼は父に連れられて、その階段を上ったのだが、あの円《まる》い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与えてくれたものだ。今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやわらかい夕ぐれの陽《ひ》ざしが虚《むな》しく流れている。雀《すずめ》がしきりに飛びまわっているのは、あのなかに巣を作っているのだろう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄《せんりつ》を呼ぶものはなくなった。そして、和《なご》やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけているようだ。バスが橋を渡って、己斐《こい》の国道の方に出ると、静かな日没前のアスファルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹《ふく》れ上った黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるようだった。
翌朝、彼は瓦斯ビルで行われる「広島の会」に出かけて行った。そこの二階で、広島ペンクラブと日本ペンクラブのテーブルスピーチは三時間あまり続いた。会が終った頃、サインブックが彼の前にも廻されて来た。〈水ヲ下サイ〉と彼は何気なく咄嗟《とっさ》にペンをとって書いた。それから彼はMと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行った。Mは以前から広島のことに関心をもっているらしかったが、今度ここで何を感受するのだろうか、と彼はふと想像してみた。よく晴れた麗しい日和《ひより》で、空気のなかには何か細かいものが無数に和《なご》みあっているようだった。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だった。彼も今ここで行われる講演会に出て喋《しゃべ》ることにされていた。彼は自分の名や作品が、まだ広島の人々にもよく知られている
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