とは思わなかった。だが、やはり遭難者の一人として、この土地とは切り離せないものがあるのではないかとおもえた。……喋ろうとすることがらは前から漠然《ばくぜん》と考えつづけていた。子供の時、見なれた土手町の桜並木、少年のくらくらするような気持で仰ぎ見た国泰寺の樟《くすのき》の大樹の青葉若葉、……そんなことを考え耽《ふけ》っていると、いま頭のなかは疼《うず》くように緑のかがやきで一杯になってゆくようだった。すると、講演の順番が彼にめぐって来た。彼はステージに出て、渦巻く聴衆の顔と対《む》きあっていたが、緑色の幻は眼の前にチラついた。顔の渦のなかには、あの日の体験者らしい顔もいるようにおもえた。
その講演会が終ると、バスはペンクラブの一行を乗せて夕方の観光道路を走っていた。眼の前に見える瀬戸内海の静かなみどりは、ざわめきに疲れた心をうっとりさせるようだった。汽船が桟橋に着くと、灯のついた島がやさしく見えて来た。旅館に落着いて間もなく、彼はある雑誌社の原爆体験者の座談会の片隅に坐っていた。
翌日、ペンクラブは解散になったので、彼は一行と別れ、ひとり電車に乗った。幟町の家に帰ってみると、裏の弟と平田屋町の次兄が来ていた。こうして兄弟四人が顔をあわすのも十数年振りのことであった。が、誰もそれを口にして云うものもなかった。三畳の食堂は食器と人でぎっしりと一杯だった。「広島の夜も少し見よう。その前に平田屋町へ寄ってみよう」と、彼は次兄と弟を誘って外に出た。次兄の店に立寄ると、カーテンが張られ灯は消えていた。
「みんなが揃《そろ》っているところを一寸《ちょっと》だけ見せて下さい」
奥から出て来た嫂《あによめ》に彼は頼んだ。寝巻姿や洋服の子供がぞろぞろと現れた。みんな、嘗《かつ》て八幡村で佗《わび》しい起居をともにした戦災児だった。それぞれ違う顔のなかで、彼に一番|懐《なつ》いていた長女のズキズキした表情が目だっていた。彼はまたすぐ往来に出た。それから三人はぶらぶらと広島駅の方まで歩いて行った。夜はもう大分遅かったが、猿猴橋《えんこうばし》を渡ると、橋の下に満潮の水があった。それは昔ながらの夜の川の感触だった。京橋まで戻って来ると、人通りの絶えた路の眼の前を、何か素速いものが横切った。
「いたち」と次兄は珍しげに声を発した。
彼はまだ見ておきたい場所や訪ねたい家が、少し残っていた。罹災後《りさいご》、半年あまり、そこで悲惨な生活をつづけた八幡村へも、久し振りで行ってみたかった。今では街からバスが出ていて、それで行けば簡単なのだが、五年前とぼとぼと歩いた一里あまりの、あの路を、もう一度足で歩いてみたかった。それで翌日、彼はまず高須の妹の家に立寄った。この新築の家にあがるのも、再婚後産れた子供を見るのも、これがはじめてだった。
「もう年寄になってしまいました。今ではあなたの方が弟のように見える」と妹は笑った。側では這《は》い歩きのできる子供が、拗《す》ねた顔で母親を視凝《みつ》めていた。
「あなたは別に異状ないのですか。眼がこの頃、どうしたわけか、涙が出てしようがないの。A・B・C・Cで診《み》て貰おうかしらと思ってるのですが」
妹と彼とは同じ屋内で原爆に遭《あ》ったのだが、五年後になって異状が現れるということがあるのだろうか。……だが、妹は義兄の例を不安げに話しだした。その義兄はあの当時、原爆症で毛髪まで無くなっていたが、すぐ元気になり、その後長らく異状なかったのに、最近になって頬《ほお》の筋肉がひきつけたり、衰弱が目だって来たというのだ。そんな話をきいていると、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すように感覚を脅《おびや》かしていた異臭をまた想い出すのだった。
妹のところで昼餉をすますと、彼は電車で楽楽園《らくらくえん》駅まで行き、そこから八幡村の方へ向って、小川に沿うた路を歩いて行った。遙《はる》か向うに、彼の眼によく見憶《みおぼ》えのある山脈があった。その山を眺めて歩いていると、嘗ての、ひだるい、悲しい怒りに似た感情がかえりみられた。……飢餓のなかで、よく彼はとぼとぼとこの路を歩いていたものだ。冷却した宇宙にひとりとり残されたように、彼はこの路で、茫然《ぼうぜん》として夜の星を仰いだものだ。だが、生存の脅威なら、その後もずっと引続いているはずだった。今も、生活の破局に晒《さら》されながら、こうして、この路をひとり歩いている。だが、とにかく、あれから五年は生きて来たのだ。……いつの間にか風が出て空気にしめりがあった。山脈の方の空に薄靄《うすもや》が立ちこめ、空は曇って来た。すぐ近くで、雲雀《ひばり》の囀《さえず》りがきこえた。見ると、薄く曇った中空に、一羽の雲雀は静かに翼を顫《ふる》わせていた。
彼はその翌朝、白島の方
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