。岩手県の方にいる友からはこの頃、便《たよ》りがなかった。釜石《かまいし》が艦砲射撃に遇《あ》い、あの辺ももう安全ではなさそうであった。
ある朝、正三が事務室にいると、近所の会社に勤めている大谷がやって来た。彼は高子の身内の一人で、順一たちの紛争《ごたごた》の頃から、よくここへ立寄るので、正三にももう珍しい顔ではなかった。細い脛《すね》に黒いゲートルを捲《ま》き、ひょろひょろの胴と細長い面は、何か危かしい印象をあたえるのだが、それを支《ささ》えようとする気魄《きはく》も備わっていた。その大谷は順一のテーブルの前につかつかと近よると、
「どうです、広島は。昨夜もまさにやって来るかと思うと、宇部の方へ外《そ》れてしまった。敵もよく知っているよ、宇部には重要工場がありますからな。それに較《くら》べると、どうも広島なんか兵隊がいるだけで、工業的見地から云わすと殆《ほとん》ど問題ではないからね。きっと大丈夫ここは助かると僕はこの頃思いだしたよ」と、大そう上機嫌《じょうきげん》で弁じるのであった。(この大谷は八月六日の朝、出勤の途上|遂《つい》に行方《ゆくえ》不明になったのである)
……だが、
前へ
次へ
全66ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング