し眺めたのだった。うかうかしてはいられない。火はもう踵《かかと》に燃えついて来たのだ、――そう呟《つぶや》きながら、一刻も早く自宅に駈《か》けつけようとした。電車はその朝も容易にやって来ず、乗客はみんな茫《ぼう》とした顔つきであった。順一が事務室に現れたのは、朝の陽《ひ》も大分高くなっていた頃であったが、ここにも茫とした顔つきの睡《ねむ》そうな人々ばかりと出逢《であ》った。
「うかうかしている時ではない。早速、工場は疎開させる」
 順一は清二の顔を見ると、すぐにそう宣告した。ミシンの取りはずし、荷馬車の下附を県庁へ申請すること、家財の再整理。――順一にはまた急な用件が山積した。相談相手の清二は、しかし、末節に疑義を挿《はさ》むばかりで、一向てきぱきしたところがなかった。順一はピシピシと鞭《むち》を振いたいおもいに燃立つのだった。

 その翌々日、こんどは広島の大空襲だという噂《うわさ》がパッと拡った。上田が夕刻、糧秣廠《りょうまつしょう》からの警告を順一に伝えると、順一は妹を急《せ》かして夕食を早目にすまし、正三と康子を顧みて云った。
「儂《わし》はこれから出掛けて行くが、あとはよろし
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