いいな、と、ひとり頷《うなず》くのであった。
 三十も半ばすぎの康子は、もう女学生の頃の明るい頭には還《かえ》れなかったし、澄んだ魂というものは何時《いつ》のまにか見喪《みうしな》われていた。が、そのかわり何か今では不貞不貞《ふてぶて》しいものが身に備わっていた。病弱な夫と死別し、幼児を抱《かか》えて、順一の近所へ移り棲《す》むようになった頃から、世間は複雑になったし、その間、一年あまり洋裁修業の旅にも出たりしたが、生活難の底で、姑《しゅうとめ》や隣組や嫂《あによめ》や兄たちに小衝《こづ》かれてゆくうちに、多少ものの裏表もわかって来た。この頃、何よりも彼女にとって興味があるのは、他人のことで、人の気持をあれこれ臆測《おくそく》したりすることが、殆ど病みつきになっていた。それから、彼女は彼女流に、人を掌中にまるめる、というより人と面白く交際《つきあ》って、ささやかな愛情のやりとりをすることに、気を紛らすのであった。半年前から知り合いになった近所の新婚の無邪気な夫妻もたまらなく好意が持てたので、順一が五日市の方へ出掛けて行って留守の夜など、康子はこの二人を招待して、どら焼を拵えた。燈火管制
前へ 次へ
全66ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング