憶がある。そのとき三津井は青ざめた彼を励しながら、川のほとりで嘔吐《おうと》する肩を撫《な》でてくれた。そんな、遠い、細かなことを、無表情に近い、窄《すぼ》んだ顔は憶《おぼ》えていてくれるのだろうか。正三はこの老人が今日のような時代をどう思っているか、尋ねてみたい気持になることもあった。だが、老人はいつも事務室の片隅で、何か人を寄せつけない頑《かたくな》なものを持っていた。
 ……あるとき、経理部から、暗幕につける環を求めて来たことがある。上田が早速《さっそく》、倉庫から環の箱を取出し、事務室の卓に並べると、「そいつは一箱いくつ這入《はい》っていますか」と経理部の兵は訊ねた。「千箇でさあ」と上田は無造作に答えた。隅の方で、じろじろ眺めていた老人はこのとき急に言葉をさし挿《はさ》んだ。
「千箇? そんな筈はない」
 上田は不思議そうに老人を眺め、
「千箇でさあ、これまでいつもそうでしたよ」
「いいや、どうしても違う」
 老人は立上って秤《はかり》を持って来た。それから、百箇の環の目方を測ると、次に箱全体の環を秤にかけた。全体を百で割ると、七百箇であった。

 森製作所では片山の送別会が行
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