家を飛出して、一週間あまりすると、けろりと家に帰って来た。だが、何かまだ割りきれないものがあるらしく、四五日すると、また行方《ゆくえ》を晦ました。すると、また順一の追求が始まった。「今度は長いぞ」と順一は昂然《こうぜん》として云い放った。「愚図愚図すれば、皆から馬鹿にされる。四十にもなって、碌《ろく》に人に挨拶《あいさつ》もできない奴《やつ》ばかりじゃないか」と弟達にあてこすることもあった。……正三は二人の兄の性格のなかに彼と同じものを見出《みいだ》すことがあって、時々、厭《いや》な気持がした。森製作所の指導員をしている康子は、兄たちの世間に対する態度の拙劣さを指摘するのだった。その拙劣さは正三にもあった。……しかし、長い間、離れているうちに、何と兄たちはひどく変って行ったことだろう。それでは正三自身はちっとも変らなかったのだろうか。……否。みんなが、みんな、日毎《ひごと》に迫る危機に晒《さら》されて、まだまだ変ろうとしているし、変ってゆくに違いない。ぎりぎりのところをみとどけなければならぬ。――これが、その頃の正三に自然に浮んで来るテーマであった。
「来たぞ」といって、清二は正三の眼の前に一枚の紙片を差出した。点呼令状であった。正三はじっとその紙に眼をおとし、印刷の隅々《すみずみ》まで読みかえした。
「五月か」と彼はそう呟《つぶや》いた。正三は昨年、国民兵の教育召集を受けた時ほどにはもう驚かなかった。がしかし清二は彼の顔に漾う苦悶《くもん》の表情をみてとって、「なあに、どっちみち、今となっては、内地勤務だ、大したことないさ」と軽くうそぶいた。……五月といえば、二カ月さきのことであったが、それまでこの戦争が続くだろうか、と正三は窃《ひそ》かに考え耽《ふけ》った。
何ということなしに正三は、ぶらぶらと街をよく散歩した。妹の息子《むすこ》の乾一を連れて、久し振りに泉邸へも行ってみた。昔、彼が幼かったとき彼もよく誰かに連れられて訪れたことのある庭園だが、今も淡い早春の陽《ひ》ざしのなかに樹木や水はひっそりとしていた。絶好の避難場所、そういう想念がすぐ閃《ひら》めくのであった。……映画館は昼間から満員だったし、盛場の食堂はいつも賑《にぎ》わっていた。正三は見覚えのある小路を選んでは歩いてみたが、どこにももう子供心に印されていた懐《なつか》しいものは見出《みいだ》せなかった。下士官に引率された兵士の一隊が悲壮な歌をうたいながら、突然、四つ角から現れる。頭髪に白鉢巻《しろはちまき》をした女子勤労学徒の一隊が、兵隊のような歩調でやって来るのともすれちがった。
……橋の上に佇《たたず》んで、川上の方を眺めると、正三の名称を知らない山々があったし、街のはての瀬戸内海の方角には島山が、建物の蔭《かげ》から顔を覗《のぞ》けた。この街を包囲しているそれらの山々に、正三はかすかに何かよびかけたいものを感じはじめた。……ある夕方、彼はふと町角を通りすぎる二人の若い女に眼が惹きつけられた。健康そうな肢体《したい》と、豊かなパーマネントの姿は、明日の新しいタイプかとちょっと正三の好奇心をそそった。彼は彼女たちの後を追い、その会話を漏《も》れ聴こうと試みた。
「お芋がありさえすりゃあ、ええわね」
間ののびた、げっそりするような声であった。
森製作所では六十名ばかりの女子学徒が、縫工場の方へやって来ることになっていた。学徒受入式の準備で、清二は張切っていたし、その日が近づくにつれて、今|迄《まで》ぶらぶらしていた正三も自然、事務室の方へ姿を現し、雑用を手伝わされた。新しい作業服を着て、ガラガラと下駄をひきずりながら、土蔵の方から椅子を運んでくる正三の様子は、慣れない仕事に抵抗しようとするような、ぎごちなさがあった。……椅子が運ばれ、幕が張られ、それに清二の書いた式順の項目が掲示され、式場は既に整っていた。その日は九時から式が行われるはずであった。だが、早朝から発せられた空襲警報のために、予定はすっかり狂ってしまった。
「……備前《びぜん》岡山、備後灘《びんごなだ》、松山上空」とラジオは艦載機来襲を刻々と告げている。正三の身支度《みじたく》が出来た頃、高射砲が唸《うな》りだした。この街では、はじめてきく高射砲であったが、どんよりと曇った空がかすかに緊張して来た。だが、機影は見えず、空襲警報は一旦《いったん》、警戒警報に移ったりして、人々はただそわそわしていた。……正三が事務室へ這入《はい》って行くと、鉄兜《てつかぶと》を被った上田の顔と出逢《であ》った。
「とうとう、やって来ましたの、なんちゅうことかいの」
と、田舎《いなか》から通勤して来る上田は彼に話しかける。その逞《たくま》しい体躯《たいく》や淡泊な心を現している相手の顔つきは、いまも何となしに
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