正三に安堵《あんど》の感を抱《いだ》かせるのであった。そこへ清二のジャンパー姿が見えた。顔は颯爽《さっそう》と笑《え》みを浮べようとして、眼はキラキラ輝いていた。……上田と清二が表の方へ姿を消し、正三ひとりが椅子に腰を下ろしていた時であった。彼は暫《しばら》くぼんやりと何も考えてはいなかったが、突然、屋根の方を、ビュンと唸《うな》る音がして、つづいて、パリパリと何か裂ける響がした。それはすぐ頭上に墜《お》ちて来そうな感じがして、正三の視覚はガラス窓の方へつっ走った。向うの二階の檐《のき》と、庭の松の梢《こずえ》が、一瞬、異常な密度で網膜に映じた。音響はそれきり、もうきこえなかった。暫くすると、表からドヤドヤと人々が帰って来た。「あ、魂消《たまげ》た、度胆《どぎも》を抜かれたわい」と三浦は歪《ゆが》んだ笑顔をしていた。……警報解除になると、往来をぞろぞろと人が通りだした。ざわざわしたなかに、どこか浮々した空気さえ感じられるのであった。すぐそこで拾ったのだといって誰かが砲弾の破片を持って来た。
その翌日、白鉢巻をした小さな女学生の一クラスが校長と主任教師に引率されてぞろぞろとやって来ると、すぐに式場の方へ導かれ、工員たちも全部着席した頃、正三は三浦と一緒に一番後からしんがりの椅子に腰を下ろしていた。県庁動員課の男の式辞や、校長の訓示はいい加減に聞流していたが、やがて、立派な国民服姿の順一が登壇すると、正三は興味をもって、演説の一言一句をききとった。こういう行事には場を踏んで来たものらしく、声も態度もキビキビしていた。だが、かすかに言葉に――というよりも心の矛盾に――つかえているようなところもあった。正三がじろじろ観察していると、順一の視線とピッタリ出喰《でく》わした。それは何かに挑《いど》みかかるような、不思議な光を放っていた。……学徒の合唱が終ると、彼女たちはその日から賑《にぎ》やかに工場へ流れて行った。毎朝早くからやって来て、夕方きちんと整列して先生に引率されながら帰ってゆく姿は、ここの製作所に一脈の新鮮さを齎《もたら》し、多少の潤いを混えるのであった。そのいじらしい姿は正三の眼に映った。
正三は事務室の片隅《かたすみ》で釦《ボタン》を数えていた。卓の上に散らかった釦を百箇ずつ纏《まと》めればいいのであるが、のろのろと馴《な》れない指さきで無器用なことを続けていると、来客と応対しながらじろじろ眺めていた順一はとうとう堪《たま》りかねたように、「そんな数え方があるか、遊びごとではないぞ」と声をかけた。せっせと手紙を書きつづけていた片山が、すぐにペンを擱《お》いて、正三の側にやって来た。「あ、それですか、それはこうして、こんな風にやって御覧なさい」片山は親切に教えてくれるのであった。この彼よりも年下の、元気な片山は、恐しいほど気がきいていて、いつも彼を圧倒するのであった。
艦載機がこの街に現れてから九日目に、また空襲警報が出た。が、豊後水道《ぶんごすいどう》から侵入した編隊は佐田岬《さたみさき》で迂廻《うかい》し、続々と九州へ向うのであった。こんどは、この街には何ごともなかったものの、この頃になると、遽《にわ》かに人も街も浮足立って来た。軍隊が出動して、街の建物を次々に破壊して行くと、昼夜なしに疎開の馬車が絶えなかった。
昼すぎ、みんなが外出したあとの事務室で、正三はひとり岩波新書の『零の発見』を読み耽《ふけ》っていた。ナポレオン戦役の時、ロシア軍の捕虜になったフランスの一士官が、憂悶《ゆうもん》のあまり数学の研究に没頭していたという話は、妙に彼の心に触れるものがあった。……ふと、そこへ、せかせかと清二が戻って来た。何かよほど興奮しているらしいことが、顔つきに現れていた。
「兄貴はまだ帰らぬか」
「まだらしいな」正三はぼんやり応《こた》えた。相変らず、順一は留守がちのことが多く、高子との紛争も、その後どうなっているのか、第三者には把《つか》めないのであった。
「ぐずぐずしてはいられないぞ」清二は怒気を帯びた声で話しだした。「外へ行って見て来るといい。竹屋町の通りも平田屋町辺もみんな取払われてしまったぞ。被服支廠《ひふくししょう》もいよいよ疎開だ」
「ふん、そういうことになったのか。してみると、広島は東京よりまず三月ほど立遅れていたわけだね」正三が何の意味もなくそんなことを呟《つぶや》くと、
「それだけ広島が遅れていたのは有難いと思わねばならぬではないか」と清二は眼をまじまじさせてなおも硬《かた》い表情をしていた。
……大勢の子供を抱《かか》えた清二の家は、近頃は次から次へとごったかえす要件で紛糾していた。どの部屋にも疎開の衣類が跳繰《はねく》りだされ、それに二人の子供は集団疎開に加わって近く出発することになっていたので
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