と、虚偽を無邪気に振舞う本能をさずかっているらしかった。……「今のうちに飲んでおきましょうや」と、そのころ順一のところにはいろんな仲間が宴会の相談を持ちかけ、森家の台所は賑わった。そんなとき近所のおかみさん達もやって来て加勢するのであった。
正三は夢の中で、嵐《あらし》が揉《も》みくちゃにされて墜《お》ちているのを感じた。つづいて、窓ガラスがドシン、ドシンと響いた。そのうちに、「煙が、煙が……」と何処かすぐ近くで叫んでいるのを耳にした。ふらふらする足どりで、二階の窓際《まどぎわ》へ寄ると、遙《はる》か西の方の空に黒煙《こくえん》が濛々《もうもう》と立騰《たちのぼ》っていた。服装をととのえ階下に行った時には、しかし、もう飛行機は過ぎてしまった後であった。……清二の心配そうな顔があった。「朝寝なんかしている際じゃないぞ」と彼は正三を叱《しか》りつけた。その朝、警報が出たことも正三はまるで知らなかったのだが、ラジオが一機、浜田(日本海側、島根県の港)へ赴《おもむ》いたと報じたかとおもうと、間もなくこれであった。紙屋町筋に一筋パラパラと爆弾が撒《ま》かれて行ったのだ。四月末日のことであった。
五月に入ると、近所の国民学校の講堂で毎晩、点呼の予習が行われていた。それを正三は知らなかったのであるが、漸くそれに気づいたのは、点呼前四日のことであった。その日から、彼も早目に夕食を了《お》えては、そこへ出掛けて行った。その学校も今では既に兵舎に充《あ》てられていた。燈の薄暗い講堂の板の間には、相当年輩の一群と、ぐんと若い一組が入混っていた。血色のいい、若い教官はピンと身をそりかえらすような姿勢で、ピカピカの長靴《ちょうか》の脛《すね》はゴムのように弾《はず》んでいた。
「みんなが、こうして予習に来ているのを、君だけ気づかなかったのか」
はじめ教官は穏かに正三に訊ね、正三はぼそぼそと弁解した。
「声が小さい!」
突然、教官は、吃驚《びっくり》するような声で呶鳴《どな》った。
……そのうち、正三もここでは皆がみんな蛮声の出し合いをしていることに気づいた。彼も首を振るい、自棄《やけ》くそに出来るかぎりの声を絞りだそうとした。疲れて家に戻ると、怒号の調子が身裡《みうち》に渦巻いた。……教官は若い一組を集めて、一人一人に点呼の練習をしていた。教官の問に対して、青年たちは元気よく答え、練習は順調に進んでいた。足が多少|跛《びっこ》の青年がでてくると、教官は壇上から彼を見下ろした。
「職業は写真屋か」
「左様でございます」青年は腰の低い商人口調でひょこんと応《こた》えた。
「よせよ、ハイ、で結構だ。折角、今|迄《まで》いい気分でいたのに、そんな返事されてはげっそりしてしまう」と教官は苦笑いした。この告白で正三はハッと気づいた。陶酔だ、と彼はおもった。
「馬鹿馬鹿しいきわみだ。日本の軍隊はただ形式に陶酔しているだけだ」家に帰ると正三は妹の前でぺらぺらと喋《しゃべ》った。
今にも雨になりそうな薄暗い朝であった。正三はその国民学校の運動場の列の中にいた。五時からやって来たのであるが、訓示や整列の繰返しばかりで、なかなか出発にはならなかった。その朝、態度がけしからんと云って、一青年の頬桁《ほおげた》を張り飛ばした教官は、何かまだ弾む気持を持てあましているようであった。そこへ恰度《ちょうど》、ひどく垢《あか》じみた中年男がやって来ると、もそもそと何か訴えはじめた。
「何だと!」と教官の声だけが満場にききとれた。「一度も予習に出なかったくせにして、今朝だけ出るつもりか」
教官はじろじろ彼を眺めていたが、
「裸になれ!」と大喝《だいかつ》した。そう云われて、相手はおずおずと釦《ボタン》を外《はず》しだした。が、教官はいよいよ猛《たけ》って来た。
「裸になるとは、こうするのだ」と、相手をぐんぐん運動場の正面に引張って来ると、くるりと後向きにさせて、パッとシャツを剥《は》ぎとった。すると青緑色の靄《もや》が立罩《たちこ》めた薄暗い光線の中に、瘡蓋《かさぶた》だらけの醜い背中が露出された。
「これが絶対安静を要した躯《からだ》なのか」と、教官は次の動作に移るため一寸《ちょっと》間を置いた。
「不心得者!」この声と同時にピシリと鉄拳《てっけん》が閃《ひらめ》いた。と、その時、校庭にあるサイレンが警戒警報の唸《うな》りを放ちだした。その、もの哀《がな》しげな太い響は、この光景にさらに凄惨《せいさん》な趣を加えるようであった。やがてサイレンが歇《や》むと、教官は自分の演じた効果に大分満足したらしく、
「今から、この男を憲兵隊へ起訴してやる」と一同に宣言し、それから、はじめて出発を命じるのであった。……一同が西練兵場へ差しかかると、雨がぽちぽち落ちだした。荒々しい歩
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