岩手県の方に疎開している友からもよく便《たよ》りがあった。「元気でいて下さい。細心にやって下さい」そういう短い言葉の端にも正三は、ひたすら終戦の日を祈っているものの気持を感じた。だが、その新しい日まで己《おれ》は生きのびるだろうか。……

 片山のところに召集令状がやって来た。精悍《せいかん》な彼は、いつものように冗談をいいながら、てきぱきと事務の後始末をして行くのであった。
「これまで点呼を受けたことはあるのですか」と正三は彼に訊《たず》ねた。
「それも今年はじめてある筈だったのですが、……いきなりこれでさあ。何しろ、千年に一度あるかないかの大いくさですよ」と片山は笑った。
 長い間、病気のため姿を現さなかった三津井老人が事務室の片隅《かたすみ》から、憂わしげに彼|等《ら》の様子を眺《なが》めていたが、このとき静かに片山の側《そば》に近寄ると、
「兵隊になられたら、馬鹿になりなさいよ、ものを考えてはいけませんよ」と、息子《むすこ》に云いきかすように云いだした。
 ……この三津井老人は正三の父の時代から店にいた人で、子供のとき正三は一度学校で気分が悪くなり、この人に迎えに来てもらった記憶がある。そのとき三津井は青ざめた彼を励しながら、川のほとりで嘔吐《おうと》する肩を撫《な》でてくれた。そんな、遠い、細かなことを、無表情に近い、窄《すぼ》んだ顔は憶《おぼ》えていてくれるのだろうか。正三はこの老人が今日のような時代をどう思っているか、尋ねてみたい気持になることもあった。だが、老人はいつも事務室の片隅で、何か人を寄せつけない頑《かたくな》なものを持っていた。
 ……あるとき、経理部から、暗幕につける環を求めて来たことがある。上田が早速《さっそく》、倉庫から環の箱を取出し、事務室の卓に並べると、「そいつは一箱いくつ這入《はい》っていますか」と経理部の兵は訊ねた。「千箇でさあ」と上田は無造作に答えた。隅の方で、じろじろ眺めていた老人はこのとき急に言葉をさし挿《はさ》んだ。
「千箇? そんな筈はない」
 上田は不思議そうに老人を眺め、
「千箇でさあ、これまでいつもそうでしたよ」
「いいや、どうしても違う」
 老人は立上って秤《はかり》を持って来た。それから、百箇の環の目方を測ると、次に箱全体の環を秤にかけた。全体を百で割ると、七百箇であった。

 森製作所では片山の送別会が行われた。すると、正三の知らぬ人々が事務室に現れ、いろんなものをどこかから整えてくるのであった。順一の加わっている、さまざまなグルウプ、それが互に物資の融通をし合っていることを正三は漸《ようや》く気づくようになった。……その頃になると、高子と順一の長い間の葛藤《かっとう》は結局、曖昧《あいまい》になり、思いがけぬ方角へ解決されてゆくのであった。
 疎開の意味で、高子には五日市町の方へ一軒、家を持たす、そして森家の台所は恰度《ちょうど》、息子を学童疎開に出して一人きりになっている康子に委《ゆだ》ねる、――そういうことが決定すると、高子も晴れがましく家に戻って来て、移転の荷拵《にごしら》えをした。だが、高子にもまして、この荷造に熱中したのは順一であった。彼はいろんな品物に丁寧に綱をかけ、覆《おお》いや枠《わく》を拵えた。そんな作業の合間には、事務室に戻り、チェック・プロテクターを使ったり、来客と応対した。夜は妹を相手にひとりで晩酌をした。酒はどこかから這入って来たし、順一の機嫌《きげん》はよかった……
 と、ある朝、B29がこの街の上空を掠《かす》めて行った。森製作所の縫工場にいた学徒たちは、一斉に窓からのぞき、屋根の方へ匐《は》い出し、空に残る飛行機雲をみとれた。「綺麗《きれい》だわね」「おお速いこと」と、少女たちはてんでに嘆声を放つ。B29も、飛行機雲も、この街に姿を現したのはこれがはじめてであった。――昨年来、東京で見なれていた正三には久し振りに見る飛行機雲であった。
 その翌日、馬車が来て、高子の荷は五日市町の方へ運ばれて行った。「嫁入りのやりなおしですよ」と、高子は笑いながら、近所の人々に挨拶《あいさつ》して出発した。だが、四五日すると、高子は改めて近所との送別会に戻って来た。電気休業で、朝から台所には餅臼《もちうす》が用意されて、順一や康子は餅搗《もちつき》の支度《したく》をした。そのうちに隣組の女達がぞろぞろと台所にやって来た。……今では正三も妹の口から、この近隣の人々のことも、うんざりするほどきかされていた。誰と誰とが結托《けったく》していて、何処《どこ》と何処が対立し、いかに統制をくぐり抜けてみんなそれぞれ遣繰《やりくり》をしているか。台所に姿を現した女たちは、みんな一筋繩《ひとすじなわ》ではゆかぬ相貌《そうぼう》であったが、正三などの及びもつかぬ生活力
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