調の音が堀に添って進んだ。その堀の向うが西部二部隊であったが、仄暗《ほのぐら》い緑の堤にいま躑躅《つつじ》の花が血のように咲乱れているのが、ふと正三の眼に留った。
康子の荷物は息子の学童疎開地へ少し送ったのと、知り合いの田舎《いなか》へ一箱預けたほかは、まだ大部分順一の家の土蔵にあった。身のまわりの品と仕事道具は、ミシンを据えた六畳の間に置かれたが、部屋一杯、仕かかりの仕事を展《ひろ》げて、その中でのぼせ気味に働くのが好きな彼女は、そこが乱雑になることは一向気にならなかった。雨がちの天気で、早くから日が暮れると鼠《ねずみ》がごそごそ這《は》いのぼって、ボール函《ばこ》の蔭へ隠れたりした。綺麗好きの順一は時々、妹を叱りつけるのだが、康子はその時だけちょっと片附けてみるものの、部屋はすぐ前以上に乱れた。仕事やら、台所やら、掃除やら、こんな広い家を兄の気に入るとおりに出来ない、と、よく康子は清二に零《こぼ》すのであった。……五日市町へ家を借りて以来、順一はつぎつぎに疎開の品を思いつき、殆ど毎日、荷造に余念ないのだったが、荷を散乱した後は家のうちをきちんと片附けておく習慣だった。順一の持逃げ用のリュックサックは食糧品が詰められて、縁側の天井から吊《つる》されている綱に括《くく》りつけてあった。つまり、鼠の侵害を防ぐためであった。……西崎に繩を掛けさせた荷を二人で製作所の片隅へ持運ぶと、順一は事務室で老眼鏡をかけ二三の書類を読み、それから不意と風呂場へ姿を現し、ゴシゴシと流し場の掃除に取掛る。
……この頃、順一は身も心も独楽《こま》のようによく廻転した。高子を疎開させたものの、町会では防空要員の疎開を拒み、移動証明を出さなかった。随って、順一は食糧も、高子のところへ運ばねばならなかった。五日市町までの定期乗車券も手に入れたし、米はこと欠かないだけ、絶えず流れ込んで来る。……風呂掃除が済む頃、順一にはもう明日の荷造のプランが出来ている。そこで、手足を拭《ぬぐ》い、下駄をつっかけ、土蔵を覘《のぞ》いてみるのであったが、入口のすぐ側に乱雑に積み重ねてある康子の荷物――何か取出して、そのまま蓋《ふた》の開いている箱や、蓋から喰《は》みだしている衣類……が、いつものことながら目につく。暫く順一はそれを冷然と見詰めていたが、ふと、ここへはもっと水桶《みずおけ》を備えつけておいた方が
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